年月日:1947:19470101:19470101-h-roc-s27-005-杨基振日记



杨基振日记>19470101

悲叹に暮れし1946年の悲剧は希くば昨日を以て终りと致し度、既に人世の感激と兴奋を丧失したる自分にとっては年改たまりて1947年を迎へしも更に希望がない。
暗い气持に年は终り平凡な气持で新年を迎へた。
中南轮船公司は相变らず迟々として其の设立は捗らず建台公司又天津に于ける香焦の大损失を被って以来意气顿に消沉し何事にも手を出し得なくなってしまった。
砂糖こそは值上がりすると思って仅かに残れる5两の金を安值で卖って砂糖を买ったら林喜一は2月1日手付金30万圆を受取った尽140俵の砂糖を引渡さず而も金は卖价2万2千圆から6、7万に飞び诸物价は新年早々大变动を来し上海市场は极度の混乱を呈してしまった。
物似は数日の中に鳗上りに暴腾し全く终战当时の天津市场を偲ばせた。
建台公司はアルミニュームの脸盆を3,300个买ひ一个110圆で买った数日间に300圆に暴腾し天津に于ける水果の损失を渐くカバーし得た。
然し之も续いて生起せる二二八事件の为に良い值で卖るチヤンスを失し大して储けなかった。
全く不运时は何も彼も不运のみである。
02月27日专卖局の警察が烟草卖の中年女の烟草を没收し、此の女は夫を南方に派遣中失ひ、幼儿を抱へて他人より借金せる仅かの资金で烟草の小卖を营めるを以て烟草の没收は一家数人の生命を夺はれたも同然。
哀愿するに剑铳で殴打されて负伤し周围の台胞の公愤と同情を买って终ひに民众は警官队に向って抵抗し出し、警官连は泡を食って之の骚ぎをきいて见物せんとする陈某氏を杀し、事件は益々发展し、翌28日には民众は警察局、专卖局を包围し正午过ぎ长官公署に陈情せんとするや宪兵又民众に发炮して无辜の民众を杀戮したのである。
之より先、凶手の引渡と处刑を要求したる民众は当局の无诚意を知るや专卖局分局を烧き出し、其の职员を殴打して重伤に到らしめ、长官公署前の惨剧が演ぜられるや外省人に对する郁愤は爆发し外省人を见るや一样に之を殴打したのである。
十时过有德君と华南银行の二阶より专卖局の烧け样を视察し、中食后更に二人で城内、大稻埕、万华を一巡したが外省人を殴打せる现场を一つも见なかった。
阴雨永らく绵绵と降り续いて渐く久振りに28日に晴れたせいもあらうか街路は人の山を筑き到る处で47年型の立派な自动车の烧痕の残滓が残ってゐる。
当时台湾には兵力薄く政府の无能无力と相俟って台地は无政府状态を呈し政府当局の负责者は何れも逃亡し社会の秩序は井然と台胞に依り保たれたが人心は极度に混乱に陷った。
光复以来政府に对する郁奋は终ひに此の事件を契机として忽ち全岛に波及し、台北に于ては28日、1日の02日间外省人に暴行を加へ彼等をして惊怖のどん底につき落としたのである。
然し3月2日になるや民众も冷静になり社会人士又之を抑压したので暴行を终息を告げた。
同时に蒋渭川、王添灯等政治建设协会を手动として事变处理委员会が成立し徐々に秩序の恢复と台胞の政治的要求を提出して台湾政治の全般的改革を企图するやうになった。
吾等も处理委员会にこそ出席した事もないが心中如何に台湾政治の革新を热烈に希望したか!
顾みる满洲国成立して间もなく自分も丁度满洲に居て同窗、先辈、同僚等が冷下数十度の极寒をものともせず、各地に蟠居せる义勇军、土匪の恐畏も顾みず大きな书类と地图をもっては日夜の别なく满洲国の建设に如何に真面目な态度で之に当ったか!
然るに今日台湾の官吏は徒らに高位高禄を占めて专ら自分の荣达と私利の贪求に余念なく异民族たる日本人の汉民族に对する态度と同民族たる外省人の台胞に对する态度を比较、对照すると转々感慨无量で泪を禁じ得ない。
政府官吏の无能と贪污、工业生产机械の破灭と农村经济の肥料缺乏に依る衰退、贸易局、专卖局、各公共事业所の独占に依る官僚资本の跋扈の必然的结果として民间商工业の沈滞、更に海外归还者の失业渐くして社会の全面的贫困と饥馑、最早台胞は忍び得ざるして到头立ち上ったのである。
02月28日より3月8日迄の11日间台胞は实に勇敢に而も秩序井然として战ったのである。
唯、指导层の政治认识の缺如、特に中国官僚のづるさに对する不认识等よりして3月9日より未曾有の惨剧は美しき乡土に丑しき鲜血を染めたのである。
03月8日の夜国内から派遣兵が到着するや直ちに戒严令が宣告され9日朝より手当り次第、人を见次第官兵は民家を破坏し民众を杀戮したのである。
何と咒はしい运命の访れであることよ!
事变关系者は勿论、今迄政府に善意的の忠告をなし来りつ一流の绅士も全部逮捕され、裁判にもかけずに杀してしまった。
林茂生、陈炘、宋斐如、林桂端、林旭屏、郑仓、林连宗、王添灯……等々、ああ、书き连ねるのも恐ろしい。
政府官兵は恶魔の如く政府官吏は狂人の如くに台胞を杀したのである。
之が祖国の姿であらうか。
全国の舆论は极端に台胞に同情しつつも终ひに如何ともし难かった。
渐く3月14日に白崇禧国防部长が来られてから虐杀は终止若しくは顿化したのである。
然れども白部长も事变の原因を政府の代辨者の如くに五十一年の奴化教育に依る无赖の徒の仕业なりと训示放送し、17日对全国放送をきくに及びそして台湾の各团体が何れも当局の令若しくは保身の术として真因を曲解し陈仪の留任运动をなし或ひは政府に谢罪して事实を枉げたる通电を全国に发するを见て慨叹に堪へず。
17日约3、4时间に亘り久振りに一文を作りて肇嘉哥に事变の原因、经过、结果を自分の知ってゐる范围内の材料で整理して命悬けで上海に送った。
当时の戒严令と恐怖政治下にあっては全く命悬けだったのである。
后で知った事であるが此の文は直ちに中国文に译され各新闻纸に揭载され更に后で“前锋”と云ふ杂志にも出された。
青白いインテリは真に悲しい。
全岛骚动の真只中で而も人一倍の热情と正义感を有し乍ら自分は处理委员会に一回も颜出ししなかった。
淑英を失ってから自分は一切の社交性を失ひ、更に仕事、政治、事业にあってもさうであるが一切の情热を失ってしまった。
之が今般自分をして何等事なきを得た由因である。
淑英地下にあれども其の灵未だに自分を保护して离れざるの感なきを得ない。
03月7日华北、东北の诸代表が公司に来られ、东北华北の联合会を结成すべく余り怂恿されるので8日に大会を开催する事になったが7日の晚より林卓章、黄千里、陈有德と麻雀をやり降雨と共に自分も参加しなかった。
斯くして自分は此の惨剧から全然事なきを得たのである。
实际3月7日以后殆ど每晚のやうに麻雀をやった。
そして其の为に多くの社交と、政治的氛围气から免れた。
斯くして二二八事变は台湾の彻底的惨败に终ったのである。
我々は确かに战ひに败れたのである。
然し子を失ひ、亲を失ひ、そして夫、兄弟を失って残りし几多の遗族更に亲しい友达を失った。
几多の同胞は今后祖国に对し陈仪の一派に对しそして外省人に对し其の永远に消え得ざる心伤をどうしませう。
最早台胞と祖国には大きな沟が出来てしまったのである。
国民党は我が最爱の妻淑英を间接的に杀しただけで蒋主席にあれだけの尊敬をして来た自分も国民党に对し不俱戴天の敌と考へ得ざるを得なくなった。
そして此の国民党に依って组织されてゐる台湾の长官公署に对しても自分は积极的に协力する意思が全然ない。
然し二二八事件后、自分の心境は多少变ってしまった。
それは不协力のみでは问题を解决し得ないのを痛感したのである。
政府が旧来の观念を清算したる后は一流の台胞は政府に参加すべきだと考へるやうになった。
そこで王四舅に适当なポストを物色方依赖した。
勿论自分が官吏になる事は决して中国社会の一环たる台土をよりよくしたいとの希望からであるよりも台人が官吏を崇拜し、目下自分の一番当面してゐる婚姻の解决はやはり官吏になった方が早道だとの结论を得たからである。
自分は斯の如き低级なる政府──淑英を死なした国民党の政府と协力する考へは毛头ない。
勿论台湾の政府がよくなり人民の生活が改善される事を望んで息まない。
然し此の改善を自ら乘り出してしたいとの意欲は更にない。
官吏たる自分に于て出来れば闲职で地位が高く换言して言へば婚姻を成立するに人を眩惑する程の地位が欲しい。
结婚が成立したら同时に官吏を辞めてもよい。
我等の理想政府が成立する迄自分は野にありたい。
野にあってもっと民众と接触したい。
21年も别れた怀しい故乡である。
今日台湾の民众は极端に穷乏に陷ってゐる。
自分だけ荣华の梦を贪りたくない。
淑慎を妻に迎へたかったが结局岳父、母の赞成が得られず驮目らしい。
其后廖恩人[廖温仁]太太より嘉义の王圆花爣との缘谈をもって来たが之も迟々として进捗しない。
事变后に于ける建台公司も更に发展せず结局闷々の中に陈有德、林卓章、黄千里、萧再兴等と麻雀に纷らして一切を忘れることであった。
幸ひに子供达は台北へ移转してから徐々に健康は恢复し日增しに丈夫になって来たやうである。
唯连绵として降りしきる雨は几时迄经っても息まず玛莉、璃莉が每日濡れて学校へ通ふ小さい姿は若し母ありませばもっと幸福だったであらうと我が子を见ては其の母──そして淑英を思ひ出して泪するのであった。
1947年
01月1日
星期三
-4月9日
星期三
希望悲叹就此结束,1946年的悲剧就到昨天为止吧!
对生命早已失去感动与兴奋的我而言,尽管一年复始、1947年到来,也是了无生趣。
在阴沉的心情中过完一年,又在平淡的气氛下迎接新的一年。
中南轮船公司还是老样,迟迟没有新的进展,建台公司又因天津那次香蕉大失败以来,意志消沉,完全不想再插手去管。
想想只有砂糖在升值,便用便宜的价格把仅存的五两金子卖掉,打算换砂糖,但林喜一在2月1号收了订金30万圆,也没把140俵的砂糖交出来,而且金子也从当初卖价的二万二千圆飙升到六、七万圆,各种物价从新年开始便大幅变动,上海市场呈现极度混乱。
物价在数天之内暴涨,让人想到战争刚结束时的天津市场。
建台公司以一个110圆的价位买进三千三百个铝制脸盆,数天之内,一个便涨到300圆,总算弥补天津水果的损失。
但之后碰上二二八事件,错失高价卖出的机会,没赚到钱。
时运不济时,做甚么都不顺。
2月27日专卖局的警察没收香烟铺中年妇女的香烟,这个妇女的丈夫被派遣到南洋后失踪,带着稚子的她只能向他人借得一点资金,做些香烟的小买卖,这回没收了香烟,形同夺走一家人的维生工具。
她苦苦求饶,却被警察用枪柄殴打,引起四周的台湾同乡的公愤与同情,最后演变成民众向警察抵抗,警察受到惊吓,误杀一时好奇站在旁边观看的陈某,事件越演越烈,隔天28日民众包围警察局、专卖局,过了正午准备向长官公署陈情,但宪兵又对民众开枪,屠杀无辜的民众。
之后,要求引渡凶手并处刑的民众发现当局毫无诚意,便放火烧专卖局,将职员打成重伤,长官公署前上演的惨剧引爆对外省人累积已久的郁闷与愤恨,民众只要见到外省人便一律殴打。
过了十点,与有德君从华南银行的二楼观看专卖局被焚烧的情形,中饭过后,两人在城内、大稻埕、万华一带巡视,但没碰上外省人被殴打的状况。
那几天阴雨绵绵,下个不停,到了28日才总算天晴,不知是否因为如此,街上围了一大群人,那边有辆47年型的豪华轿车被烧的痕迹。
当时台湾兵力薄弱,加上政府无能,台湾形同无政府状态,政府当局主事者每个都逃跑了,虽台胞们努力保持社会的井然有序,但人心陷入极度混乱。
光复以来对政府的愤慨,经由这个事件终于爆发,波及全岛,台北28日与1日两天内,便出现对外省人的暴力行为,使得外省人陷入极度恐慌。
到了3月2日,民众总算平静,加上有社会人士出面制止,暴行总算平息,同时蒋渭川、王添灯等人着手政治建设协会,成立事变处理委员会,逐渐恢复秩序,并提出台胞们的政治要求,企图全面改革台湾政治。
我们虽连处理委员会都没有出席,但心中强烈期盼台湾政治的革新!
回顾满洲国成立后不久,我刚好人在满洲,与同窗、学长、同事等人,不辞零下数十度的严寒、不畏盘踞各地的义勇军、土匪,带着一大堆资料与地图,不分昼夜地投入满洲国的建设,那种认真的态度正如今日的他们一样!
但今天台湾官吏徒居高位、尸位素餐,满脑子净是自己的荣达富贵与贪念私利,想想异族日本人对汉民族的态度,再看看身为同民族的外省人对待台湾同胞的模样,两相对照,不禁感慨无量地掉泪。
政府官吏的无能与贪污,工业生产机器被破坏,加上农业经济因为缺乏肥料而衰退,贸易局、专卖局与各公共事业被独占而造成官僚跋扈,这些必然的结果更让民间工商业停滞,连带使海外归国者失业连连,造成社会全面性贫瘠,台胞忍无可忍,最后终于挺身而出。
但是,这些领导人缺乏政治认知,尤其是不懂中国官僚的狡猾,3月9日发生前所未有的惨剧,丑恶的鲜血染红了美丽的乡土。
03月8日夜里,国内派遣兵一到,便直接宣布戒严,9日一早,官兵们见民房就毁、见人就杀。
这是何等的诅咒啊!
别说是事变相关人员,就连一直以来对政府抱持善意建言的一流绅士们也全被逮捕,连判都没有就直接被杀了。
林茂生、陈炘、宋斐如、林桂端、林旭屏、郑仓、林连宗、王添灯……等等,啊,我连写起来都觉得骇人。
政府官兵如恶魔、政府官吏如狂人般地残杀台胞。
这就是祖国的模样么?全国舆论虽对台胞寄予无限同情,但终究是无能为力。
到了3月14日,白崇禧国防部长来台,终止屠杀。
但白部长以政府代理者之姿广播放送,将这次事变原因归咎成五十一年来奴化教育下的无赖行径,17日听到这则全国广播,看到台湾各团体都碍于当局之令或为明哲保身,曲解真正原因,甚至还有陈仪留任请愿运动,以及不顾事情原委地发电全国要向政府谢罪,忍不住感慨万千。
17日约过三、四个小时,许久没写文章的我作一文给肇嘉哥,就我所知范围内尽力整理事变原因、经过、结果,送往上海。
在当时戒严令与恐怖政治之下,这是玩命的举动。
事后才得知,这篇文章直接翻译成中文,刊载在各报纸中,之后还被登在《前锋》杂志里。
身为没有行动力的知识分子真是悲哀。
全台动乱中,自己虽比他人多一倍热情与正义感,却连一次都没参加处理委员会。
淑英走后,我失去一切交际心情,连对工作、政治、事业也丧失一切热情。
这正是为何我这次完全束手旁观的原因。
我不得不感觉,这是淑英地下有知保佑我。
03月7日,华北、东北的各个代表来到公司,打算组成东北华北的联合会,在大家怂恿下,决定于8日召开大会,但7日晚上与林卓章、黄千里、陈有德玩麻将,加上下雨天,便没参加。
这让我与这次惨案扯不上关系。
其实,3月7日以后,我几乎每晚都在打麻将。
也因此,我少了许多社交与接触政治的机会。
二二八事变在台湾惨败收场。
我们的的确确在这场战役中失败了。
遗族失去儿女、失去双亲、失去丈夫、失去兄弟,也失去了最亲爱的朋友。
成千上万的同胞今后面对祖国、面对陈仪、以及面对外省人时,该如何处理这份永远无法抹灭的伤痛。
这终于造成台胞与祖国间巨大的鸿沟。
国民党间接杀死了我的爱妻淑英,虽然对蒋主席十分尊敬,但我仍不得不对国民党抱持不共戴天的仇恨,我完全无意积极支持这个由国民党组成的台湾长官公署。
但二二八事件之后,心境多少有点转变。
毕竟这样的消极完全无法解决问题。
政府在清算旧有观念后,我认为应当有一流台胞参与政事。
我请王四舅为我物色适当的职务。
想当官,为的不只是让中国社会一角的台湾好,是评估后发现台湾人崇拜官吏的习性,我现在当前的问题就是想早点结婚,当官是解决婚姻问题的捷径。
面对这种低级政府──这个害死淑英的政府,我根本无意参与。
当然,我也希望台湾政府变好,人民生活有所改善。
但我无意身先士卒推动改善。
若当官,最好是轻松、地位高,换言之,我希望是个地位诱人到足以让人想与我结婚。
一旦结了婚,就算辞官也无妨。
在理想的政府成立以前,我还是希望在野。
在野可以多与民众接触。
别离21年、让人怀念的故乡。
今天台湾民众陷入极端贫困,我不想贪图荣华富贵。
本想娶淑慎为妻,但似乎得不到岳父、岳母同意,无望。
之后廖恩人[廖温仁]太太又来为嘉义的王圆花小姐说媒,但迟迟没有进展。
事变后,建台公司更无进展,苦闷中,我与陈有德、林卓章、黄千里、萧再兴等人沉溺麻将,忘却一切烦忧。
所幸孩子们搬到台北后,日益恢复健康,身子变得强健。
但连绵数日的细雨始终不停,看到玛莉、璃莉每天淋着雨上学的小小身影,若是她们的母亲还在,会是何等幸福啊,看着孩子想到她们的母亲淑英,我湿了眼眶。

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