年月日:1946:19461022:19461022-t-jpn-dea-002-日本新闻



日本ニュース 戦后編 第41号

1946年(昭和21年)10月22日

[1]昭和十七年に対ソ戦争の計画(東京裁判) 01:30

昭和16年3月、ときの外務大臣松岡はモスクワにおいて日ソ中立条約に調印。スターリン、モロトフ氏らに対し、この条約によって日本はソビエトを攻撃しないという態度を見せましたが、しかし事実は同じ年7月の御前会議では、昭和17年にソビエトに侵略する作戦計画を決定。航空部隊、機械化部隊を中心とする100万の大軍を満州に集中、大規模な演習を繰り返して対ソ攻撃の機をうかがっていました。

日本軍国主義者の計画では、満州国の西より突入してシベリア鉄道を一挙に遮断、極東ソ連を占領し、さらにオムスクを境にして、東は日本、西はドイツという虫のよい山分けのプランでありました。 10月08日、ソ連側ゴルンスキーは東京裁判の検事法廷でこの真相を暴露、日本のすべての戦争指導者たちの責任を鋭く追及しました。

[2]皇太子さんの英語の先生 東京<時の話題> 00:26

今年14になった皇太子殿下の英語の家庭教師として天皇陛下から招かれたアメリカのヴァイニング夫人が15日来朝、淀橋の官舎に落ち着きました。

[3]海底から水田に 岡山<時の話題> 00:29

食糧不足、土地不足の折りから、海の底をたんぼにしようと岡山県児島湾の開拓工事が戦災者や復員者の手で行なわれております。深さ平均1メートル半、わずかな引き潮を見計らってやる難事業ですが、すでに開拓された3000町歩はなかなかの出来栄えです。

[4]何を見たか和田農相 埼玉<時の話題> 00:18

埼玉県北足立郡の馬頭観音で13年ぶりで行なわれた宝舞、和田農相もこの年代がかった豊年踊りに議会のあかを落としています。

[5]十四年ぶり浅草観音様浮世に<時の話題> 00:30

にぎやかな太鼓に明けた浅草復興祭3日目の13日、浅草寺の観音様のご開帳が14年ぶりで行なわれました。当日の呼び物、ご開帳恒例の稚児さんの行列。復興祭とご開帳にこの日の人出40万。焼け出されても観音様、相変わらずの人気です。

[6]米第八軍上陸演習 01:04

サイパン、フィリピン、沖縄などの上陸作戦にその精鋭さを誇ったアメリカ第八軍が日本における最初の上陸演習を神奈川県茅ヶ崎海岸で行ないました。10月14日には、空軍の援護下、上陸用の舟艇でまず歩兵が敵前上陸。さらに水陸両用の装甲車、タンクなども特殊輸送船から岸にのし上げ、みごとな機動力を見せました。

こういうアメリカ軍の本土上陸を竹槍で迎えようとしたかつての日本軍の無謀さが今さらのように感じられます。

[7]注視の的“10月”ゼネスト 政治闘争か、経済ゼネストか 00:54

<河合厚生大臣>

「最近のゼネストのように経済のらちを超えて政治目的を達しようとするのは好ましくない。ことに議会を無視してゼネストの力で政治目的を達成させるのは非民主的だと私は思います」

<聴濤産別議長>

「とんでもないことでしてね、それは政府の完全なデマです。ところが、われわれの掲げている要求を見てもらえばわかるように、首切り反対にしても、勤労所得税の撤廃にしても、労働時間の問題にしても、すべてこれは労働者の基本的な生活権の問題なんです。労働組合として最も初歩的な要求なんです。このためにやるわれわれ労働者自身の闘争を、政治ゼネストだということに切り換えて、これを粉砕しようとするのが政府の意図であると」

[8]ひろがるストの波 00:53

10月13日、弾圧反対を叫んで日比谷公園に労働者大会開催、各産業から集まった労働者は雨にぬれながら共同闘争を決議しました。15日には映画演劇労働組合がストに突入、撮影所はキャメラもライトも止めて職場大会に気勢をあげました。一方、映画館ではスターたちや舞踊隊が、直接街頭のお客さんに呼びかけてサービスを兼ねた宣伝戦を展開しました。かくてストライキの波は新聞から映画、石炭、電気、鉄鉱としだいに広がりつつあります。

[9]読売争議解決す 01:29

新聞ゼネストの導火線となり、各方面から注目されていた読売新聞社の争議は、10月16日ついに解決しました。会社側は、結局、労働委員会の裁定の線に沿って、37名を除く他の全争議団員の復社を認め、争議団増山[太助]代表と馬場[恒吾]社長の間に調印が交わされました。

読売争議団が焼けビルの中に立て籠もって闘い続けること5か月、その間、国鉄、海員など幾多の争議の先頭に立って活動してきた苦闘の数々をしのばせながら、この問題の争議もひとまず幕を閉じることになり、争議団員たちはさらに新しい職場で闘うことを誓い合いました。

<争議団員>

「われわれはこれから闘うんだ。俺ら37名はしゃばに出てもあくまで闘う。あとに残った人も、この4か月の闘いを生かして、会社側と、あるいは反動政府とあくまで闘う。そうですね、みなさん」

<争議団員>

「われわれは馘首は取り消させました。しかし全面的な勝利は得られなかった。これから闘争を他の舞台に移し、勇敢に最后まで闘う決意を有するものであります」

年月日/1946/19461022/19461022-t-jpn-dea-002-日本新闻.txt · 最后更改: 2025/07/21 15:09 由 127.0.0.1