叶盛吉日记>19450401
04月1日(日)
快晴
风凉し
①东大入学式、安田讲堂、【1】午前八时四十五分入场、九时开式。
一同入场
┐
国歌齐唱(二回)
│总长【2】は随分年老りなり。
新入生代表宣誓文朗读
├讲堂は猛然立派なり。
总长训辞
│
一同退场
┘
②次いで医学部三阶讲堂で医学部长より训辞あり。
医学部は大学の存する限り东京に残る。
全学会;
【3】铁门俱乐部;
【4】医学部会即ち铁门俱乐部委员の话あり。
短艇竞漕会がかつてあった。
连战连败、应援のために铁门俱乐部ができた。
そした连胜した。
全员学校に合宿の案
副议长
副
一−二.
总代
一.
文化
一.
企画
二.
锻练
二.次いであまり气乘りしない二高の先辈大家さんに学内を色々と案内してもらった、昼食を食ひそこなって自炊す。
夕方张君来たる、夕食をくって信浓町【5】に行ったが黄さん不在、
后高圆寺【6】の长谷川五郎【7】さんのところへ、子供が目立って大きくなってゐた、
おばさん达は近い中田舍へ疏开するさうな、归ったら李さんの下宿でおはぎの优待。
04月1日(日)
晴朗
风凉爽
①东大入学典礼,安田讲堂,上午八时四十五分入场、九时开始。
一同入场
┐
齐唱国歌(两次)
│校长相当年老。
新生代表朗读宣誓文
├讲堂非常壮观。
校长训示
│
一同退场
┘
②接着是在医学部三楼讲堂医学部长的训示。
只要大学有医学部,我们就会留在东京。
全校性团体;
铁门俱乐部;
据说医学部联谊会就是铁门俱乐部,由该会委员讲话。
他说医学部曾有过短艇竞赛队,但连战连败,为了替他们加油才成立铁门俱乐部。
从那之后就连胜。
全体于学校合宿案
副议长
副
一—二.
总代
一.
文化
一.
企画
二.
锻练
二.接着感觉意兴阑珊的二高学长大家为我介绍学校,午餐不好吃只好自己做。
傍晚张君来,吃了晚餐到信浓町,但黄兄不在。
后来到高圆寺长谷川五郎住处,孩子明显长大许多。
阿姨们最近似乎都疏散到乡下去了,回去在李兄住处他们请我吃萩饼。
【注】
【1】安田讲堂:位于今东京大学本乡校区的讲堂。
为实业家安田善次郎所捐献建设,正式名称为东京大学大讲堂。
1925年竣工,数次重修,为东京大学的代表建筑,并有许多学生运动在此展开。
(加藤谕,〈战前・战时期における东京帝国大学の安田讲堂利用と式典催事〉),《东京大学史纪要》,第34号(2016.3),页1)
【2】总长:依据1886年公布帝国大学令,为旧制帝国大学与部分私立大学校长之职称。
当时总长为内田祥三(うちだよしかず),一八八五~1972年,东京人,东京帝国大学建筑科毕,1943年任该校总长。
(ジャパンナレッジ(JapanKnowledge),《デジタル大辞泉》,总长、内田祥三,2019.1.31阅览,http://japanknowledge.com)
【3】全学会:1928年东京帝国大学学友会解散后,于1941年成立全学会,将各学系的学友会、运动会以及其他校内团体统一,以面对战时体制。
1946年解散。
(宫崎ふみ子,〈战时下の东京帝国大学学内诸组织〉,《东京大学史纪要》,第1号(1978.2),页160)
【4】铁门俱乐部:东京大学医学部医学科毕业生的同学会,根据地区不同有地方性的铁门会。
(ジャパンナレッジ(JapanKnowledge),《デジタル大辞泉》,铁门俱乐部,2019.1.31阅览,http://japanknowledge.com)
【5】信浓町:位于今东京都新宿区。
【6】高圆寺:东京杉并区高圆寺。
记主于1943年准备重考时常到此寻找朋友。
【7】长谷川五郎:记主于1943年日记曾记载至高圆寺的长谷川先生住处聊天。
