吴新荣日记>19450105
寿坤特别干部候补生に合格し、即日内地に向けて出发せり
。
午顷になってから屏东へ行った父亲が无事に归って来た。
悠然として何事もなかった样に见えるのは、向ふに被害がなかったわけだ。
それで午饭にはカラスミとウイスキーを出して自祝した。
夕方、寿坤も二、03日振りに归って来たが、その直前に台湾军司令部から特别干部候补生に合格した通知が来た。
明朝に台北に出头せねばならないので、今晚出发することになった。
それで先づ沤汪に至って叔父に挨拶し、それから将军に归って母亲に会ふことになった。
母亲は例の通り非常に别れを惜んだが、别に慰め样がなかった。
最后に祖先の位碑[牌]に线香を上げてから、自分は寿坤と国卿の前で一场の家训を与へた。
即ちこの庭にある三本の想[相]思树は吾等三人兄弟を表象してゐる。
この三本の想[相]思树が繁茂してゐる间、我が吴家は安泰だ。
然しこう云ふ战国时代はどうなるか分らないから、结局最后に生き残る人はこの祖家を守らねばならない。
自分は武人として寿坤を战场に送らねばならないのは台湾を救ふ为めだ。
台湾はこの战ひに依って本当の新生命を开かねばならないのだ。
それからもう一つは花莲港冲で遭难した寿山の复仇も、寿坤を出征させた理由だ。
然し生き拔き、生き残るものこそ最后の胜利者であることを铭记すべきである等と大体话した。
终ってから佳里に戻って家族的に记念写真を撮影し、惜别宴会を开いた。
それから五藤郡守、高木街长、赤木校长、福冈庶务课长、重松警察课长等に挨拶回した。
赤木校长は佳里驿迄に送って下れ、万岁三唱の音头を取って下れた。
かくて寿坤は我が一族に见送られ、遥々征途に上ったわけである。
今日、高木街长、岳母、吴尊贤君、黄腾氏等から祝仪を贳った。
寿坤合格特别干部候补生【1】,即日向内地出发
。
中午,父亲从屏东平安归来,悠然地好像什么事都未发生,是因为屏东方面没有损害。
午饭时就拿出乌鱼子和威士忌做为庆祝。
傍晚,两三天不见的寿坤回来了,而早一步到家的是台湾军司令部寄来的合格通知:他被遴选为特别干部候补生。
明天早上必须到台北报到,今夜一定得出发才行。
所以就先到沤汪向叔父道别,然后回将军见母亲。
母亲依然非常地不舍,也不知如何安慰她才好。
最后向祖先牌位上香后,我在寿坤和国卿面前做了一场训示:在这院中有三棵相思树,表征着我家三兄弟,只要这三棵相思树繁茂,也就是我们吴家的安泰;
但此战乱将会如何,无人可知。
最后留存下来的人一定要保护我们祖家。
我今以武人身分把寿坤送上战场,为的是要救台湾。
台湾将因这战争而开拓出新生命,再加上为在花莲港近海遇难的寿山复仇,也是此次令寿坤出征的理由。
但要铭记活到最后,留下来的,才是最后的胜利者。
讲完之后,就回佳里拍了一张全家族纪念照,并开了惜别宴。
之后巡回拜会了五藤郡守【2】、高木街长【3】、赤木校长、福冈庶务课长、重松警察课长等人。
赤木校长还到佳里车站送行,并带领大家三呼万岁。
如此,寿坤在我家族欢送声中,走上遥远征途。
今天高木街长、岳母【4】、吴尊贤【5】君、黄腾【6】氏等送来祝仪。
【注】
【1】特别干部候补生:第二次大战末期,日军干部缺少,特别招考中学生(今高中生),经各种军校之短期训练后,以准少尉任用,分派于各军种,是谓“干部候补生”。
寿坤报考的是“神风特攻队”,准备驾战机撞击美军舰。
幸于训练完毕时,恰逢日本投降而幸免于难。
【2】郡守:此指北门郡之首长。
管辖佳里、西港、学甲、北门、将军、七股六街庄。
【3】高木街长:即高木荣六(1891-?
),日本冈山县人。
县立冈山商业学校毕业。
曾任北门郡佳里街长,大阪为替贮金支局书记补勤务、新竹邮便局通信手、台南州内务部劝业课州属勤务、曾文郡勤务、北港郡勤务、北港郡庶务课长、北门郡庶务课长、地方理事官兼任台南州勤务、仁德庄长。
【4】岳母:此处指林英良之母杜玉(1898-1959),台南市湾里人,20即嫁入米街米商林仁为第三妻子,33岁守寡,曾于1947年至1955年长住“小雅园”。
1955年至1958年,由佳里至白河,于白河大仙寺出家,再转往台南修禅寺,1958年转回佳里善行寺。
【5】吴尊贤(1916-1999):台南县学甲镇头港人,学甲公学校高等科毕业。
“台南帮”大财团吴修齐的胞弟。
其父吴克读曾于吴玉瓒(吴新荣祖父)担任沤汪区长时,担任区长役场书记。
1944年经吴新荣推介而任职佳里街役场(其时正接到征召服役通知书,因此能免服役。
吴尊贤尝时对其子女言:吴新荣是他们家族的救命恩人)。
战后任台南纺织、统一企业公司董事、环球水泥等公司董事长、《自立晚报》常务董事长、万通银行董事长等职;
并捐资1亿元成立吴尊贤文教公益基金会。
【6】黄腾(?
-1957):台湾炼瓦会社佳里工场主任。
为最信赖吴新荣的病人之一。
