年月日:1943:19431112:19431112-h-roc-s27-006-吴新荣日记



吴新荣日记>19431112

“台湾文学决战会议”开かる

昨日の淡水游は实に印象が深かった。
この古城に配して志士を以ってした。
その上に丽人は丰やかに淡水の风情を添へて下れた。
即ち闺秀画家である王夫人の款待に吾人は只感激するばかりである。
昨夕、淡水行の车中で杨云萍君に出会って今朝の汽车で同路することを约束した。
然し俗情に纷れてとうとうこの诗仙と同行することを得ずして、郭君と真先に张文环君を访ねることになった。
丁度张星建君が来たのでそこで一绪に昼食を摄った。
やがて“台湾文学决战会议”の第01日の日程に赴く为めに圆山迄步いて行った。
明治桥で会议员が待[落]ち合ってから一绪に台湾神社と护国神社に参拜した。
そこで本日の会议に出席する黄得时、田中保男、杨逵、杨云萍、龙瑛宗、吕赫若诸君に出会った。
参拜后、上记の仲间だけ“四时美”でサイダー水を饮んでから会议场たる公会堂に赴いた。
そこで明日の本会议の打合せを行った。
打合会が济んでから杨逵君が编纂委员长になってゐる盛兴书店に赴いた。
战争になって内地から余り书物が来ないので、近时台湾では出版业者が激兴して来た。
盛兴书店もその一つであるが、その店主は吾々を晚饭に招待すると云ひ出した。
それで张文环、张星建、郭水潭、杨逵诸君と月光庄へ行った。
それが济んでから万华に赴き、池田敏雄君と会はうとしたが不在であった。
それで郭君、杨君と太平町に戻り、双连から乘车して又新北投に来て泊った。
举行“台湾文学决战会议”【1】

昨日淡水之游印象深刻,此一古城匹配了志士,加上多丽人,凭添了淡水风情。
在此地受到闺秀画家王夫人【2】的款待,心中只有无限的感激。
昨天在淡水线车中与杨云萍相会,约定今晨坐火车同行。
因被俗事所缠,结果未能与这位诗仙同车。
我和郭君先去找张文环君,正好张星建君在场,就一起吃午餐。
之后步行到圆山,赴“台湾文学决战会议”第一天日程。
与会者在明治桥【3】会合后,一起到台湾神社【4】和护国神社【5】参拜。
在此见到了来参加开会的黄得时、田中保男【6】、杨逵、杨云萍、龙瑛宗、吕赫若诸君。
参拜后,与上记友人到“四时美”喝汽水后,一起到这次议场的公会堂【7】,进行明天正式会议的会前讨论。
之后,到杨逵君担任编纂委员长的盛兴书店去。
战争以来,日本送到台湾的书物很少,以致台湾的出版业者激增,盛兴书店就是其中之一。
店主说今夜招待大家吃晚饭,就和张文环、张星建、郭水潭、杨逵等人到月光庄去。
饭后到万华,想和池田敏雄君见面,可惜他不在家。
就和郭君、杨君回太平町,从双连上车,又到新北投住宿。

【注】
【1】台湾文学决战会议:1943年11月13日,由台湾文学奉公会主办,总督府情报课、皇民奉公会中央本部、日本文学报国会等协办,于台北市公会堂举行。
议长山本真平(台湾文学奉公会会长、皇民奉公会事务长)、副议长矢野峰人(台湾文学奉公会常务理事)、来宾森田民夫(总督府情报课长)、大泽贞吉(皇民奉公会中央宣传部长)等人参加。
议题为“本岛文学决战态势之确立,文学家之战争协力及其理念与决战方法”。
共58名作家(其中台湾人11名)参加。
【2】王夫人:此指王昶雄的妻子林玉珠女士(画家)。
【3】明治桥:建于1901年,横跨基隆河,连接南岸的圆山与北岸的剑潭山。
台湾神社盖在剑潭山,俯视台北市,可远眺台湾总督府。
由于从圆山到剑潭原本无桥,明治桥是台湾神社营建的附带工程,造型优美,今已拆除,改建为中山桥。
【4】台湾神社:位于台北剑潭山(圆山)中腹。
供奉日本神明大国魂命、大己贵命、少彦名命及能久亲王。
1899年建造。
1901年10月28日举行大祭,为日治时代台湾总镇守之神明。
战后改建为圆山大饭店。
【5】护国神社:1942年,为祭祀由台湾出征的英灵,祈求日本国运昌隆而建造“台湾护国神社”,战后改为中华民国忠烈祠。
【6】田中保男:日治时期住在台中的《台湾新闻》文艺部记者、文化部长。
与杨逵私交甚笃。
1941年任张文环发行之《台湾文学》编辑委员。
对台湾人作家之活动颇积极参与,而对日人作家西川满一派加以批判。
【7】公会堂:此指“台北公会堂”。
1932年动工,1936年完工,主要由总督府技师井手薰设计,耗费98万日圆,总共动员94,500人。
战后更名为“中山堂”。

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