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日本ニュース 第133号

1942年(昭和17年)12月24日

[1]大元帥陛下 陸士卒業式行幸 02:04

かしこくも大元帥陛下には、12月17日、陸軍士官学校に行幸、ご愛馬初雪に召させられ、同校第56期卒業生徒を御親閲あらせられました。

諸兵指揮官、額田少将指揮のもとに卒業生は光栄に感激しつつ、御馬前に士気軒昂(けんこう)たる分列行進を行のう。

午後1時20分、大元帥陛下には同校校庭に設けられた卒業証書授与式場に臨御あそばされました。学校長は各中隊長に卒業証書を授与。次いで16名の優等生に、侍従武官より恩賜の品を下賜あらせられる。大東亜戦争下、初の卒業式はここに滞りなく終わったのであります。

[2]日華提携強化へ汪首席来訪 03:18

中華民国国民政府主席兼行政院院長汪精衛氏は、大東亜戦争第1周年に当たり、我が国の赫々(かくかく)たる戦果に祝意を表するとともに、日華提携をさらに緊密化する目的をもって、我が方要路の人々と懇談のため、12月20日、空より晴れの帝都入りをしました。

入京第3日の22日。かしこきあたりにおかせられては、松平式部長官を宿舎大東亜迎賓館に御差遣。汪主席に対し、大勲位菊花大綬章を御贈進あらせられました。

同日午前10時、汪精衛氏は中華民国政府主席の資格をもって、我が皇室に来訪のご挨拶をなし、敬意を表するため宮中に参入。

宮中を退室した汪精衛氏は宿舎迎賓館において記者団と会見、かしこきあたりの熱きおぼし召しに謹んで御礼の言葉を述べ、さらに日華提携強化の方途について率直明快に所信を披瀝(ひれき)しました。

<汪精衛氏の言葉翻訳>

「時局問題に関しましては、既に東條総理大臣をはじめ、谷外務大臣、青木大東亜庁大臣と胸襟を開いて懇談いたしたのでありまするが、その結果、ともに今後両国相提携して、もって大東亜戦争完遂に邁進(まいしん)せんとする方途が闡明(せんめい)せられましたことは、誠に欣快(きんかい)とするところであります。」

[3]枢軸戦没勇士 慰霊祭 02:07

固き盟約の下、東西相呼応する大戦果の影に、米英撃滅、世界新秩序建設の花と散った枢軸盟邦の勇士が数多(あまた)あります。その将兵の忠魂を弔う慰霊祭が12月19日、東京後楽園運動場で頭山満氏を祭典委員(音声中断)、各国大公使、朝野の名士、一般市民ら約6万人の参列を得て、盛大に執り行われました。

英霊よ安かれと、オットー·ドイツ大使。インデルリ·イタリア大使。

(慰霊祭の様子)

[4]マレーヤシ油の製造<共栄圏産業建設> 01:14

激しかった銃砲声も昨日のこと。今や皇軍の庇護(ひご)の下に、ここマライの住民たちは平和な明け暮れを迎え、子どもたちも元気よく働いています。

この子どもの頭ほどもあるやしの実からは、食用やせっけん、その他化学製品になくてはならぬやしの油が採れます。このやしの油は南方重要資源のひとつなので、いま増産が大々的に進められていますが、その製法はやしの実を砕き中にある胚乳を乾燥、これを蒸して、圧搾機にかけて搾ると原油がたっぷり採れます。この原油を精製すれば、もう立派なやしの油です。

[5]フィリッピン綿花の栽培<共栄圏産業建設> 02:15

フィリピンの農業は、今までアメリカのゆがめられた経済政策の犠牲となって、砂糖の栽培にのみ頼っていましたが、今や我が軍政部の指導により、共栄圏における繊維資源の自給自足を目指して、大規模な綿花の栽培に着手しました。開墾されたサトウキビの畑や荒れ地は、水牛を使って地ならしされます。

次は種まき。この地方色豊かな種まきをご覧ください。

南の強い日ざしを受けて発芽した綿の木は、すぐ除草を必要とするほど、すくすくと伸び、大きく育っていきます。綿を一度も作った経験のない住民たちも、共栄圏の綿はフィリピンで、とばかりに、もう来るべき収穫の日を語り合いながら楽しく働いています。

(綿花畑の様子)

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