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日本ニュース 第114号

1942年(昭和17年)8月11日

[1]ビルマ行政府成立 02:42

我が軍政の指導下に、住民の歓呼を浴びてビルマ中央行政府が、8月1日、ラングーンでめでたく発足いたしました。この日、
飯田最高指揮官から行政府長官に任ぜられたバーモ博士をはじめ、新政府の9部長官は、いずれも反英抗争に血と涙の戦いを続けてきた人ばかり。
全住民の指導者として信頼を勝ち得ている人々であります。

飯田将軍はバーモ長官以下の任命を終えた後、次の如く意義深い訓辞を述べました。

「本日ここに、軍政下新たに行政府の設立を見るに至ったことは、誠に慶賀にたえないところであります。
本日、ビルマの行政府成立の記念すべき日にあたり、私は今後、同政府がいよいよ健全なる発達を遂げ、官民一致協力、大東亜圏、共栄圏の完成に力を注ぎ、貢献を成すと同時に、
インドにおいてもこれに同調し、英国の覊絆より脱して、彼ららしき独立を招来することを念願してやまないものであります。」

「大日本軍万歳を三唱いたします。ヤポッン(日本)万歳。」

「万歳。」

[1]缅甸行政机构成立02:42

在军政府的领导下,在缅甸人民的欢呼声中,缅甸中央行政区于8月1日在仰光成功就职。
当天被最高司令官饭田任命为新政府首脑的巴莫博士和新政府的其他九位首脑都是曾经在反英斗争中浴血奋战的人。
他们是赢得全体人民信任的领导人。

在完成对维尔莫酋长等人的任命后,饭田将军发表了以下重要讲话。

今天,我祝贺你们在军事政权下建立了新的行政部门。
今天,在缅甸行政机构成立这一值得纪念的日子里,我希望缅甸政府能够继续实现良性发展,希望公共部门和私营部门共同努力,完成大东亚圈和共荣圈,并为此做出贡献,
也希望印度能够效仿,摆脱英国的桎梏,以自己的方式实现独立。
我们希望为完善大日本帝国做出贡献“。

为日本军队欢呼三声。日本万岁!万岁!”

[2]全土に溌剌健民運動 03:46

今年から、全国で赤ちゃんの定期的な検診が行われることになりました。病気を予防し、お国の宝を一層丈夫に育てるために、健民運動はまず赤ちゃんの健全な発達からです。

「大切な赤ちゃんは絶対に子どもに任せてはなりません。それを見たおばあさんは驚いて赤ちゃんを抱えてきました。お母さんは赤ちゃんを抱くだけでも細心の注意を払っています。」

この東京の検診所では紙芝居でお母さんたちに色んな注意も与えるほか、日本で一番多い病気、結核を防ぐために、最も簡単で的確な方法、ツベルクリン反応の注射を試みています。

「結核菌が入り込んだかどうかということは聞いても、たたいてみてもわからないんですから、注射で調べるのが一番いい方法なんです。」

反応が陽性になったときは注意しなければなりません。

老いも若きも、男も女も、みんなが手軽に健康増進を図るのには、体操が最も手っ取り早く、効果的です。一、二、三、四、五、六、七、八。少しくらい具合が悪いのは吹き飛んでしまいます。これは、8日の大詔奉戴日に大阪で開かれたラジオ体操の市民大会。戦いのさなかに健康を増進するのは、我々の務めであります。体操はどこにいても暇があったら、みんなでやりましょう。有名な江木さんがスタンド体操にのりだしています。

「やー!はい、声が小さい。やー、はい、やー、はい、やー、はい、やー、はい、やー!はい、ゆるめてー。前を蹴飛ばさないように、足をブラブラ、ブラブラ、ブラブラ。はい、右、ブラブラ、ブラブラ、ブラブラ。はい、左、ブラブラ、ブラブラ、ブラブラ。手のひらを外に返して深呼吸、一、二、三、四、五、六、七、八、一、二、三、四、五、六、七、八、終わります。(聞き取り困難)組の有志の一日も早く御平癒をお祈りいたしまして、拍手。」

さて、最も健康で最も鍛えられた肉体は、こんな猛烈な体操を毎日何回となく繰り返して、参ってしまうどころか、ますます丈夫になっていくのです。この勇士たちはティモール島で活躍した海軍落下傘部隊の精鋭です。誰に言われるのでもない、教えられるのでもない、いつどこででもお国の役に立てるよう、この勇士たちに負けぬよう、私たちも立派な身体を作り上げようではありませんか。

[3]日英交換船出発 01:49

浅間丸、コンテベルテ号の日米交換船に次いで、龍田丸とともに日英外交官その他一般在留民交換の重要任務に就く鎌倉丸が、平和の印、白十字も鮮やかに8月10日朝、横浜を出帆しました。
鎌倉丸より一足先に7月30日、横浜を出帆した龍田丸は、8月3日上海に着きました。
イギリス以下、インド、オーストラリア、エジプト、ベルギー、チェコ、オランダ、ノルウェイ、ギリシャ、ポーランドと今は地図の上から姿を消した、帰るに祖国なき人々を加えた454名がその船客。
上海ではさらに支那各地、およびマニラから集まった325名を加えて、
8月4日、交換地ロレンソ·マルケスへと向かいました。

大東亜にヨーロッパに、敗戦の一筋道を歩む故国イギリスへ、クレーギー大使は勝利に輝く日本の厳然たる姿を胸に抱いて帰り行くのであります。

[3]日英交流船出发01:49

继“浅间丸”号和“康特维尔特”号之后,“镰仓丸”号与“辰田丸”号一起承担起交换英日外交官和其他居民的重要任务。
“镰仓丸”号于8月10日上午从横滨起航,船上挂着象征和平的白色十字架。
辰田丸“于7月30日从横滨启航,比”镰仓丸“早一天,并于8月3日抵达上海。
船上的454名乘客包括来自英国、印度、澳大利亚、埃及、比利时、捷克共和国、荷兰、挪威、希腊、波兰和其他现已从地图上消失的国家的人,以及在家乡没有祖国的人。
在上海,又有来自中国各地和马尼拉的325人加入,
8月4日,船只驶向交换点洛伦佐-马克斯。

克雷吉大使回到欧洲,回到走在战败之路上的祖国英国,心中带着日本胜利的庄严形象。\\

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