吴新荣日记>19420223
昨日、帝国商事の定期总会があったので午后三时、台南へ行った。
小株主だが、奇珍兄の事业を助ける意味に于いて每年出席することになってゐる。
幸に事业も顺调に行ってゐるが、资本があればこんな坚实な事业にもっと投资したいものである。
总会が济んで宴会に入った时、王乌硈先生から、佳里油肥の成功难をきいてびっくりした。
即ち海军管理の下に台湾で大きな国策的制油会社を兴すことになるから、结局原料は向ふに全部とられるとの事だ。
とにかく佳里油肥に对して自分は始めから大きい期待を以[持]ってゐなかった。
然しそんなに早くその结果を知らうとは思はなかった。
こうなった以上は、やはり会社はそのまゝ存续させて、その财的结合を永续させる方が得だと思ふ。
とにかく徐清吉君の计画する事业は、今迄曾つて成功した试がなかったが、幸いに方沁氏の三和财阀が控へてゐるから又安心が出来る。
宴会后、贵岛悍氏が新嘉坡へ行くと云ふので挨拶に行ったが不在であった。
途中、林衡权君と林江海君等に会ったので宝美楼に诱はれた。
宝美楼には久しく行かなかったが、帝国商事の社长も第二次会を招待してゐるから赈かであった。
林君等は他にも友达があったがとにかく大に饮んだ后、步きながら兴南支局に赴いた。
そこで今朝の二时迄语っては笑ひ、笑ひては语ってから休んだ。
今朝起きたら、林夫人は是非朝饭を[が]济んでからと云ふので、ゆっくりして归って来た。
昨朝、国分直一氏を案内して北头の蕃迹を访ねた。
同行者は郭水潭、吴敏诚两君であった。
さすが良心的な学者だけあって、非常に详しく考证して半日を费した。
“阿立祖”として祭ってゐる壶は国分氏の说明に依って“安平壶”であることがあ[分]った。
“安平壶”とはゼアランジャ城の迹からよく出る和兰时代の和兰壶である。
この“阿立祖”を四个所を见て[た]后、砂丘を下りて例の“飞蕃茔”を见た。
それから佳里に戻って三五甲即ち一保に赴いて、そこに残ってゐる唯一の“阿立祖”を见た。
それで国分氏と别れたが、この良心的な历史家と半日、佳里の野に驱け回ったことは幸福である。
今晚には教育系の水上、太田两君が围棋に来たが、后で乐春楼で一杯やることになった。
丁度李荣阶、谢得宜、陈其和三君も来たので、第二次会迄やって面白く游んだ。
昨天下午三点到台南,参加帝国商事定期总会。
我只是小股东,其意义是帮助奇珍兄的事业,所以我每年都按时参加总会。
好在此事业都很顺利营运,如果有资金,对此坚实的事业应可再多些投资。
总会结束,开始宴会,王乌硈先生说出佳里油肥经营难以成功,吓了一跳。
他说在海军管理下,将在台湾成立一个大国策性的制油公司,因此所有原料全都会被收走。
反正对佳里油肥,一开始我就不抱很大的期待,但没想到这么快就会有这种结果。
既然如此,我想只好继续维持原状,让此资金的结合永续下去才是良策。
总之,徐清吉君所计划的事业,到目前为止没有一件成功过的例子,好在方沁氏的三和财阀在后撑着,多少可放心了。
宴会后,听说贵岛悍氏将有新加坡之行,想向他致意,却不在家。
途中遇到林衡权【1】君和林江海【2】君,他俩邀我到宝美楼【3】。
好久没来了,帝国商事会社也在此招待第二次会,场面相当热闹。
林君也另邀了几位朋友,大家都喝了不少。
散会后,漫步到兴南支局,谈谈笑笑,一直到深夜两点才休息。
今晨起床后林夫人热情地要我吃了早餐再走,我就不急着赶回家。
昨天上午,陪国分直一氏到北头【洋】探访蕃迹。
由郭水潭、吴敏诚两位作陪。
他不愧是一个好学者,非常详细地考证,费了半天的时间,经国分氏的解说,我才知道供祭“阿立祖”的壶,就是“安平壶”。
安平壶就是热兰遮城迹中经常发掘出的荷兰时代的荷兰壶。
看过有关阿立祖的四个定点后,下了砂丘看“飞蕃墓”。
之后回到佳里,到三五甲,也就是一保,看唯一的“阿立祖”遗迹,之后才道别。
和这位热心的历史家,花了半天时间在佳里郊野四处探访古迹,觉得很荣幸。
今晚,教育系的水上【4】、太田【5】两位来下围棋,之后到乐春楼喝酒,正好李荣阶、谢得宜、陈其和三位也来了。
喝了二次会,玩得很尽兴。
【注】
【1】林衡权(1907-1960):日名林克信,南投县人,父林崧雨。
台中一中毕业后,先后进入日本中央大学豫科、法学部、大学院就读,专攻经济学。
并且活跃于东京台湾同乡会,担任常任理事职。
1935年进入兴南新闻社社会部服务,其中曾任高雄支局长兼任屏东支局长、台南支局长兼任嘉义支局长、台中支局长。
【2】林江海(1906-?
):嘉义县东石乡朴子人。
东京医学专门学校毕业,为吴新荣的学弟(低一班)。
曾服务于林眼科医院,东京医学专门学校附属病院、嘉义市林眼科医院。
曾担任台南州会议员。
【3】宝美楼:昔日闻名全台的酒楼,位于现今台南市西门路及民族路交叉口、西门圆环西南角,相传该楼于清朝就已经存在,现今之四层楼建筑建于1934年,为台南当时颇具规模的风月场所及重要地标,至1970年代以前,一直是台南地区仕绅阶级、文艺人士经常出入的场所。
【4】水上:水上明。
北门郡教育系员。
为吴新荣战后继续交往之日本朋友。
吴新荣逝世后,寄稿哀悼之。
【5】太田:太田龙,本名赖石成。
北门郡教育系员。
1942年担任吴新荣孩子们的家庭教师。
1946年与吴新荣等人同为台南市北门同乡会发起人。
