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日本ニュース 第85号

1942年(昭和17年)1月20日

[1]無敵海軍輝く観兵式 01:38

帝国海軍が輝く戦勝の春を寿ぐ、横須賀海兵団、海軍始観兵式は、1月15日海兵団練兵場において、厳粛に挙行されました。晴れの親閲官、平田横須賀鎮守府司令長官は、参加部隊の閲兵を行いました。続いて分列式に移り、6千の海の兵(つわもの)は潮風に翩翻(へんぽん)と翻る大軍艦旗を奉持(ほうじ)、歩武堂々の大行進を開始しました。大東亜戦争の戦果益々あがり、東亜の天地に皇国の威武燦(さん)として輝くの時、目の当たりに見るわが無敵海軍の偉容(いよう)は厳として式場を圧し、太平洋の戦雲を睨んで、将兵の眉宇、決然として必勝の確信に溢れ、真に頼もしき限りでありました。

[2]北京の米海兵俘虜収容所<敗残の米俘虜護送> 00:58

大東亜戦争勃発するや、大陸の我が皇軍は間髪をいれず、北支駐屯アメリカ海兵隊の武装解除を行い、支那大陸からアメリカ勢力を完全に一掃。これらをそっくり捕虜として収容しました。アメリカ駐屯軍司令官以下の海兵隊は、我が軍の護送のもとに北京停車場を後に天津に向かいました。

[3]ウエーキ島から横浜港へ<敗残の米俘虜護送> 00:46

一方、アメリカが東洋進攻の前進根拠地として難攻不落を豪語していたウェーキ島も、開戦旬日にして我が猛攻の前に脆くも潰(つい)え、守備隊長以下捕虜1235名が1月18日横浜に到着しました。捕虜たちは我が軍の温情に感謝し、守備隊長カニンガム中佐は、日本軍の勇猛果敢さを賞賛した後、次のように語りました。

「私は米大統領に伝えたい。我々は日本の猛撃にウェーキ島放棄の止むなきに至った。捕虜として我々はよく扱われて居り日本国民に大変感謝している。」

[4]防衛全し戦時下の西貢 00:59

大東亜戦争勃発以来、いわゆるABCD包囲陣の真っ只中に、位する仏印の大都会サイゴンは、敵米英空軍を過大評価し、敵空軍による爆撃を極度に恐れ、市内目抜きの商店街では店頭に爆風除けの張り紙、バリケードを築くという騒ぎですが、それにもお洒落なフランス好みを忘れません。こうしたせっかくの物々しい臨戦準備も、我が無敵荒鷲の前に敵空軍が脆くも慴伏(しょうふく)した今日では、一度の空襲もなく平和な日が続いています。しかし間近に戦場を控えているだけに、彼らは敵の空のゲリラ戦術を警戒して、防空壕を掘るのに余念もありません。

[5]北ボルネオ完全確保 01:26

遠く、英領ボルネオに作戦中の我が皇軍は、昨年12月31日、ブルネイ王国の首都ブルネイに、堂々の進駐を行いました。日本の威武を信じ、日本の真意を了解してこの日を待ちあぐんでいたブルネイ国王夫妻は、親しく皇軍を郊外まで出迎えられました。金色の模様のある黒色の上着、黄色のズボン、頭にはターバンを巻いた王様は、我が軍を心から歓迎し、自ら先に立ってブルネイへと向かいました。王は我が帝国に忠誠を誓い、国民は歓呼して我が軍の進駐を迎えました。ここにもイギリスの支配から逃れた喜びが満ち溢れています。そして、このゴムと石油に恵まれたサルタンの国、ブルネイはこの日から我が日本の指導の下に、希望に輝く更生の第一歩を踏み出しました。絵のようなブルネイの町を後に、皇軍はさらに海を越え、4時間の行程のラブアン島に渡る。ここでも、我が軍は市民の歓呼に迎えられ、かくてこの地方の無血占領は滞りなく完了しました。

[6]マレー快進撃 01:41

敗走に次ぐ敗走のイギリス軍主力を急追して、早くもマレー中部の要衝·イポーを目標に、ペラク河畔に殺到した我が陸の精鋭は、なおも急追の手を緩めず、敵が退却にあたって爆破した橋梁を迅速に修理、一部は鉄舟をもってこれは強行渡河に成功しました。マレーの雨季は既に終わりに近く、熱帯の太陽は、焼き付くように我が将兵を照りつけています。南へ、南へ。一休みする暇もなく次々に部隊は怒涛(どとう)の如(ごと)き大進撃を続けます。ジャングルをぬって延々と続く一様なアスファルトの舗装路を、我が精鋭部隊は一丸火の玉となって驀進(ばくしん)する。突如前方のジャングルに敵敗残部隊を発見。先頭戦車部隊は直ちにジャングルを押し分けて、敵に猛射を浴びせ、一挙にこれを撃滅しました。

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