吴新荣日记>19420115
台湾奉公医师团结成式。
金关丈夫博士を访问す。
台北诸友欢迎会を开いて下れた。
昨夜、黄百禄君と别れて又黄奇珍宅を访ねた。
余程台北行きを中止しようかと思ったが、奇珍君は驿迄见送って下れると云ふので□□から夜行急行で上北することになった。
今朝台北驿に着いたら电报で知せた郑国津君が见えないので、谢振声君を访ねた。
そこで朝饭を济んでから一人で御成町から太平町迄ぶらぶら步いた。
先づ第一に山水亭主人王井泉君を访ねたら彼は非常に喜んで迎へて下れた。
それで电话で早速张文环、陈逸松、陈绍馨、藤野雄士诸君に知らせて下れた。
やがて张文环君を访ねたら彼は丁度《台湾文学》第三号を校正中であった。
そこで编辑のことを少らく相谈してゐる中に台北放送局の名和荣一君が见えたので绍介された。
それから陈逸松君を访ねて色々语っている中に陈绍馨君が来られた。
陈逸松君は午后から全岛青年有志の时局讲演会があるので、やがてそこを辞した。
それで陈绍馨、王井泉、张文环三君と公会堂に赴き昼饭を食べた。
食后、张文环君が用事があると云ふので彼と别れ、私达三人だけ森永へ行った。
そこで旨いシユウクリムとココアを饮んでゐる时に、藤野雄士君と名和荣一君が见えた。
やがて时间が来たので、自分は彼等と别れ一人で公会堂に赴き、台湾奉公医师团结成式に参加した。
新体制に应じて全岛的に同业が结合して国家的に奉仕することは极めて当然である。
长谷川大提督总督も临席して一场の告辞を述べられたことは实に印象的であった。
结成式が济んだ后、又讲演があったが、自分は陈绍馨君との约【束】に依り台北医院前に赴いた。
陈君は先着して待ってゐるので一绪に台北帝大へ行った。
长い细いアスファルトの道を通りて、私たちは解剖学教室に至った。
そこにかねて约束してゐた金关丈夫博士が私等を待ってゐたのだ。
私は台湾にこんな良心的な有能な学者がをるとは思はなかった。
彼はもの静かに吾々に红茶を进め、もの静かに吾々と语った。
森に围まれた如きこの解剖学教室が一つの洞天とすればこの白晰な学者は正に仙人である。
吾々は《民俗台湾》のことを语ってゐる时に池田敏雄が见えた。
彼は台湾の天才少女黄氏凤姿さんの恩师であり、又台湾民俗の一权威でもあった。
この奇遇に互に感激した后、自分の[と]陈绍馨君は约に依りここを辞しなければならなかった。
即ち今晚は王井泉宅に于いて自分の欢迎会があるので、吾等はバスでそこに赴いたのである。
そこに着くと、主人王井泉を始め、杨佐三郎、黄得时、名和荣一、中山侑、张文环、藤野雄士诸君が待ってゐた。
画家の杨佐三郎と台湾放送协会の文艺系长の中山侑とは始めて【で】あるだけ嬉しかった。
料理はさすがは山水亭と歌はるるだけあって实に清素にして上品なものばかりであった。
宴会が济んで少らく茶话に移り、それからカフェーに移った。
その中に段々别れて行くので终いには王井泉君、张文环君、杨佐三郎君だけ残ったので又街を步き回った。
夜も大分更けたので自分は彼らと别れ、谢振声宅に赴いた。
然し门は已に闭じてゐるので、大正街で淡水行の最终汽车に乘ったのである。
台北では恐らくは旅馆は皆满员であると伡夫が建言したからだ。
然し新北投に着いたが夜中であるし、实に淋しかった。
蓬莱阁别馆に泊ったが、温泉は冷えて仕样がなかった。
清静であること、夜具がよいことは幸だが、食料は恐しくまづかった。
そこでとにかく休むことになったが、今日のことで头が一杯であった。
今度来北した目的は完全に达したが、例の风邪气味が愈らないので弱った。
殊に台北の样に冷雨が降るので、これ以上恶化しなければいゝがと悬念してゐる。
台湾奉公医师团成立大会。
拜访金关丈夫博士。
台北诸友为我办欢迎会。
昨夜和黄百禄君分手后,再访黄奇珍宅,忽然又想取消北上之行,但奇珍兄说要送我到火车站,就决定搭夜快车北上。
今晨到了台北,见不到我打电报通知过的郑国津【1】君,所以就去拜访谢振声【2】君。
在他家吃过早餐之后,我一个人从御成町【3】漫步到太平町【4】,先去拜访山水亭的主人王井泉【5】,他很高兴地欢迎我的到来。
在那边,他打电话告知张文环、陈逸松、陈绍馨、藤野雄士【6】等人我来到台北的消息。
之后去拜访张文环君,他刚好在校对《台湾文学》第三号,两人商谈编辑问题之时,台北放送局【7】的名和荣一【8】君来了,他就介绍我们认识。
之后访问陈逸松君,谈了一下子,陈绍馨君来了。
陈逸松君下午有个全岛青年有志之士的时局演讲会,所以我就告辞了。
之后和陈绍馨、王井泉、张文环三君到公会堂吃午饭。
餐后,张文环君有事先走了,剩下三人就一起到森永去,在吃美味的奶油泡芙和可可亚时,藤野雄士和名和荣一君也来了。
不久,开会时间快到了,我和他们分手后,就到公会堂去出席台湾奉公医师团成立典礼。
为因应新体制,结合全岛的医师同业为国家献身做事是极当然的。
长谷川【9】大提督总督也临席致辞,令人印象深刻。
之后的演讲会,因和陈绍馨君有约在先,就先离开会场。
赶到台北医院前面,陈君已在等着,就一起到台北帝大去。
走过狭长的柏油路,到了解剖学教室,金关博士已在等着我们。
想不到台湾有如此有良心的、有能力的学者。
他安祥地请我们喝红茶,缓慢地跟我们谈话,好像被森林包围的这间别有洞天的解剖学教室,此一白晰的学者恰似一位仙人。
我们在谈《民俗台湾》之时,池田敏雄【10】来了。
他是台湾天才少女黄凤姿【11】的恩师,又是台湾民俗的权威,非常感激有此奇遇。
我和陈君有约,非告辞不可了。
今晚在王井泉宅为我开了一个欢迎会,我们搭巴士赴约。
到时一看,主人王井泉以外,杨佐三郎【12】、黄得时,名和荣一、中山侑【13】、张文环、藤野雄士等人都到了。
和画家杨佐三郎与台湾放送协会的文艺系长【14】中山侑都是第一次见面,真是高兴。
因为山水亭闻名天下,既清素又高尚。
宴后茶会,然后又是咖啡。
各人有事先行离去,最后留下的是王井泉君、张文环君、杨佐三郎君,就上街散步。
已不早了,大家分手道别,走到了谢振声宅,门已深锁,就在大正街乘淡水线最后一班火车。
因人力车夫告诉我可能台北的旅馆都住满了,到新北投试试。
半夜的新北投,冷冷清清,到蓬莱阁投宿,温泉变冷泉,真是无奈。
环境清静,床具干净,但料理糟透。
躺下来好好休息一下,脑子里则出现今天经历过的一幕幕影像。
此次北上,目的已达,但感冒尚未痊愈,真吃不消。
尤其台北地区下的冷雨,希望病况不要再恶化。
【注】
【1】郑国津(1910-?
):台南县佳里镇人,公学校高等科毕,曾任台北州肥料试验所产业技手。
“台湾文艺联盟佳里支部”同仁。
新诗作品有〈不安的星座〉等。
【2】谢振声:彰化市人,彰化市北门德生医院长谢德斌长男,医学博士。
台湾总督府台北州立台北第一中学校学生。
吴新荣就读东京医专时的同学。
自东京医专毕业后,在东京帝大研究细菌卫生学,后在台北病院研究皮肤花柳病科。
台北帝大创设后,再入河石外科研究。
后返彰化开业。
【3】御成町:为日治时期台北市行政区,因辖内有裕仁太子行启台湾所立之御成碑而得名。
约今之中山北路一段、二段,为中正区、大同区、中山区三区交接。
【4】太平町:为日治时期台北市之行政区,因有太平公学校而得名。
约为今大同区之延平北路一段至三段附近。
【5】王井泉(1905-1965):台北市人。
台湾商工学校毕业。
青年时期参加新剧运动重要团体“星光演剧研究会”与“民烽剧团”的演出。
1938年于大稻埕开设“山水亭”料理店,为台湾文化人的聚会所,时称“大稻埕的梁山泊”。
1941年与张文环、黄得时、陈逸松等组成“启文社”,担任负责人,并发行《台湾文学》杂志。
1943年“厚生演剧研究会”成立,亦出任负责人。
1955年“山水亭”关门后,于荣星花园内担任整理花木之职至终。
【6】藤野雄士(1918-?
):中学毕业后曾担任过特种学校教师、《台湾时事新报》及《大阪朝日新闻》记者,为文学爱好者。
【7】放送局:日语。
广播电台。
【8】名和荣一:日治时期作家,属于《台湾文学》集团。
战争期间任职于“台湾放送协会”,昭和18年(1943)为“厚生演剧研究会”顾问。
【9】长谷川:即长谷川清(1883-1970),日本福井县人。
1903年毕业于海军兵学校,1914年毕业于海军大学校。
历任03日月驱逐舰长、第二舰队参谋、美国大使馆武官参赞等。
1940年11月始任台湾总督,任内缓和前总督小林跻造的宗教政策,组成皇民奉公会,以应付对英、美开战后的情势。
1942年4月1日实施陆军特别志愿兵制度。
1943年8月实施海军特别志愿军。
1944年实施征兵制(翌年4月入营)。
1944年12月离任,回日后任军事参议官,1945年2月任海军战力查察使,其正确的报告,使天皇决定向盟军投降。
【10】池田敏雄(1916-1981):日本岛根县人。
1924年与父母来台定居,入台北市旭小学校。
1929年进台北市第一师范学校。
1935年任教龙山公学校期间,培植小学生黄凤姿成为台湾第一位少女作家。
1939年协助西川满所创刊《台湾风土记》之编辑。
同年,担任“台湾诗人协会”之委员。
1940年协助西川满所创刊《文艺台湾》之编辑。
同年任台湾总督府情报部嘱托。
1941年《民俗台湾》创刊,与金关丈夫负责编辑。
1944年出版《台湾の家庭生活》。
战后与门生黄凤姿结婚。
1946年任台湾省编译馆台湾研究组(馆长许寿裳)。
1947年被迫返回故里,任出版社“平凡社”总编辑。
著有《台湾の家庭生活》、《战ふ台湾农村》等。
【11】黄凤姿(1928-
):台北市万华区人。
小学时代获级任老师池田敏雄之栽培,经常发表有关台湾民俗之小品文。
12岁小学毕业时,即结集出版《七爷八爷》、《七娘妈生》二书。
又于台北第三高女时代出版《台湾の少女》。
因此三书而被誉为台湾第一位少女作家。
战后,与池田敏雄结婚后,举家迁回日本。
现居东京都。
育有一女一男。
【12】杨佐三郎(1907-1995):原名杨三郎,台北市人。
日治时期改名“杨佐三郎”。
小学毕业后,赴日。
1924年入京都工艺美术学校,1927年返台渡假,参加第一届台湾美术展览会。
1932年赴欧洲深造,1933年以〈塞那河畔〉入选法国秋季沙龙。
同年暑假,海外留学生回乡,于杨三郎家召开台籍美术家座谈会。
1934年11月成立台阳美术协会,成立者有杨三郎、廖继春等八人,为民间最有力之画会,与官办之“台展”相抗衡。
同时,杨三郎另与郭雪湖等三人成立“天砚会”,推展民间美术教育。
1941年,与郭雪湖赴华南旅行写生,并于厦门等地举行画展,颇为成功。
1991年于台北市创立杨三郎美术馆。
【13】中山侑(1905-1959):笔名京山春夫、志马陆平等。
日治时期作家,诗人、小说家、剧作家,尤以撰写影评、广播剧本与流行歌词闻名。
曾任职于台湾放送协会,也曾参与多种文艺期刊之创办与编务,如《水田与自动车》、《水晶宫》、《蜻蛉玉》、《文艺台湾》、《台湾文学》等。
战后任职于日本NHK广播电台。
【14】系长:日本机关之职称,“课”之下为“系”,课设课长,系设系长各一人。
