吴新荣日记>19410804
“大道”の文献。
读むべき本(もの)がないと实に淋しく感じた。
幸に昨日から一时に《台湾艺术》、《南方》、《中央公论》、《诊查と医学》、《实验治疗》、《治疗医学》等が入って来た。
それでもこんなのは瞬く间に读了するであらう。
书を亲しまなれば笔も亲しま得ずである。
それで日记も四、05日书かなかったが、その二、03日の事を回顾して见よう。
一昨晚、陈文潜氏の为めに郭水潭氏を[に]会はうとしたが、乐春楼で户田商工主任と饮んでゐるので仲间入りした。
大分饮んでゐる中に、户田氏は段々その真情を吐露した。
彼は原价千何圆の书籍を七十三圆で处分して饮んだことがある。
一时は黑龙江まで逃ん[げ]迂んだが、その长流を望んで空しく归って来た。
今日はこんなに成り果てたが、人间性だけは失ってゐない筈だと言々切々たるものがあった。
彼は又自分の文を《台湾文艺》(台湾文学の误りか)で读んだことがあるからよく知ってゐると云った。
久しく会はなかった同志に会った样な气がした。
昨夕、台南の仲田氏が访ねて来たが、会は[へ]なかった。
それで酒仲卖捌所へ行って见たら、彼の归った后だった。
彼は访ねて来るだけあって彼の友情を理解することが出来る。
然し若しも户田氏が文学者とすれば、彼は正しく政治家である。
今夕、黄吉山君夫妇が访ねて来た。
彼は西港组合医院を辞めて、今度七股で开业することになった。
彼の父亲は自分の父亲とは亲友で、又彼は东京留学生として自分の后辈であった。
それで彼も开业に就いて屡々相谈しに来たが、自分も彼を指导することは极めて必要と感じた。
その点に于いて自分は彼の夫人に无远虑に注意を与へてやった。
今晚、古闲国民学校长が来访した。
学校に《小学教育大辞典》(?
)を[が]要ると云ふ要件で相谈に来たのである。
全部三十何册、二百圆近くもあるさうである。
书籍の如き文化的备品ならば自分も喜んで寄附すると申し入れた。
彼も喜んで色々な事を语ってから喜んで归って行た。
今迄余り语る机会がなかったので、实は自分を误解してゐた点もあったと付け加へた。
吾々は改姓する场合に“大道”と云ふ苗字を付けようと思ってゐた。
この“大道”の两字は吾々の苗字としたくても、吾々人生として行ふべき大道であると熟熟感じた。
今日はこの“大道”に就いて又新文献を得た。
即ち越南の南部に“高台教”と云ふ新宗教が势力を持ってゐるとのことだ。
この“高台教”は吴文昭と云ふ人の主唱で“大道三期普渡”と云ふ标语があった。
即ち神が三度福音を宣布したとの意味である。
东洋に于いては曾って释加[迦]から老子に通じ、西洋ではモーゼからキリストに通じて福音を宣布したが、今度即ち第三期に新しい福音を宣布するのが高台教であると云ふことだ。
この“高台”とは最高神とのことで、この最高神の行ふ道は即ち“大道”である。
この教理は轮回转生、禁欲生活、灵媒を许し、博爱、世界归一、民族平等、佛教と道教と基督教の混合教と思へば、间违ひがある[はない]。
また高台教徒は越南の民族运动と表里相通ずると云ふから、吾々は大道公保生大帝吴真人のことを思ひ出す。
吴真人は宋末に忠义を尽し、后大道公と神となって明朝の革命を助けた。
现代には保生大帝と云ふ民族神として灵媒に[を]介し人间界に救济を行ってゐる。
これは勿论道教の一流派であるが、吾々はここに奇异に感ずることは保生大帝吴真人は“吴姓”で后世“大道公”と称せられ、高台教主吴文昭も“吴姓”で教理“大道”を唱へてゐることである。
吴文昭は交趾支那の官吏と云ふか、汉民族でなくとも汉民族の血を引いてゐることは、その老子に对する理解からしても间违ひないと思ふ。
かく“吴姓”と“大道”との关系からして、吾々は“大道”を姓とし、“大道”を行ひたい事は决して无意味ではない。
吾々はもう一つ思ひ出したことは、日支事变の初期、上海陷落の后、同市に“大道市政府”を组织したことである。
その由来は明白でないことは遗憾である。
后日又调べて、その真意义を纠[究]明する必要がある。
午、宗原宽即ち黄奇珍兄から手纸が来た。
彼として近来稀なる悲壮な便りである。
即ち国内の新态[体]制强化に彼の旧き道德的观念が崩坏しつつあると告げてゐる。
そして今、彼はその为めに苦闷懊恼の为めに休息と静养を求めている。
それに依ると、彼の商卖の限度が明白になった样な气がする。
昨日は珍しくも佳里から出る五つの路にオートバイを驱けて往诊した。
即ち外渡头へ行く为めに塭子内道路を、埔顶へ行く为めに七股道路を、同安寮へ行く为めに麻豆道路を、番子寮へ行く为めに将军道路を、会社へ行く为めに学甲道路を通った。
さう远い往诊ではないが、近来としては稀なことである。
远い所はたまにあっても日[月]に一、二回位はあるかないかである。
そして患者は主に佳里本部落だから宅诊の外に往诊があるとすれば主に自转车で驱け回るのだ。
ガソリン节约の时代には丁度持って来いであるが、自分の地盘がありありと分って将来の为めに何んだか心细くなる。
それでも国内新态[体]制の一相貌であったら又何をか云はんだ。
“大道”的文献。
手头上没有该读的书,真是愁闷,幸好昨天一下子收到一堆书报《台湾艺术》【1】、《南方》【2】、《中央公论》【3】、《诊察与医学》、《实验治疗》、《治疗医学》等。
这些也许很快就可读完,多了看书的时间,写字的时间当然就少了,所以四、五天没写日记了,就做几天来的回顾吧!
前天晚上为了陈文潜的事想找郭水潭氏,他在乐春楼和户田商工主任饮酒,我就去插队了,喝了不少,户田氏渐渐开始口吐真言。
他说曾把一千多圆购得的书,以七十三圆处理掉,拿去喝酒。
有一次还逃到黑龙江去,但看了看这条长流,最后还是空虚地回来了。
他悲切地说,活到现在这样落魄,但并未丧失人性。
他还告诉我曾读过我刊在《台湾文艺》【4】(《台湾文学》之误?
)【5】上的文章,所以非常了解我的想法,我也有久逢知己的感觉。
昨夕,台南仲田氏来访,但我不在,所以没有见到面。
于是到酒配销所找他,他已走了。
他来找我,使我充分了解到他对我的友情,如果户田氏是文学家的话,那么他应该就是政治家。
今夕,黄吉山君夫妇来访,他辞去西港组合医院的工作,这次将在七股开业。
他的父亲和我父亲是好友;
以东京留学生来说,是我的后辈,有关开业的问题经常找我帮忙,我也感到有指导他的必要,并不客气地对他夫人说些该注意的事项。
今夜,古闲国民学校校长来访,来商量学校须要一部《小学教育大辞典》(?
)一事,全部三十几大册,价格两百多圆。
书籍之类的文化设备,我表示乐于捐赠。
他听了很高兴,谈了些话就走了。
到目前不太有机会谈话沟通,似乎有些什么事对我有所误解,我也顺便向他说明了。
如果有一天要改姓名时,曾想过姓氏应是“大道”。
这“大道”两字不只是姓氏而已,并感到此“大道”也是人生该行之大道。
今天又得到有关“大道”两字的新文献。
此即在越南南部有新兴的宗教“高台教”的新势力正在抬头,由吴文昭主倡并揭示“大道三期普渡”的标语,其意为神明三渡传布福音。
以东洋来说,由释迦到老子;
西洋是由摩西到基督,传布其福音;
而今第三期要传布福音者就是高台教。
此“高台”指的就是最高的神,而此最高的神要走的道就是“大道”。
此教的教义是轮回转生、禁欲生活、灵媒通神为准则,融合博爱、世界归一、民族平等之类的佛教、道教、基督教,成为一种混和教。
又因为高台教徒与越南的民族运动是表里相通的,所以令人想起大道公保生大帝吴真人。
吴真人在宋朝末年尽忠义而死后,变成了神明的大道公,对明朝革命做出贡献。
现今被尊为保生大帝,是民众的保护神,透过灵媒拯救在人间受苦的民众。
这当然是道教思想的一个流派,但我对此事感到奇妙的是,保生大帝吴真人姓“吴”,后世尊称“大道”公;
高台教主吴文昭也姓“吴”,提倡教理“大道”。
或说吴文昭是交趾支那【6】的官吏;
从他对老子思想的了解,即使不是汉民族,身上也带有汉人血统,我想应该是不会错吧。
从“吴姓”与“大道”的关系来看,我以“大道”为姓氏,实践“大道”,绝非无意义。
我又想起另一件事,在日支事变初期,上海沦陷之后,组织了一个“大道市政府”。
其由来不明,真遗憾。
留待日后调查,究明其真正的意义。
中午收到宗原宽也就是黄奇珍兄的来函。
以他而言,是近来少有的一封悲壮的信。
主要是告诉我,国内新体制之强化,摧毁了他对旧道德的价值观,为此苦闷懊恼,想休息静养一阵子。
如此一来,似乎令人感到他的生意买卖即将要结束。
昨日骑着摩托车去看诊,由佳里通往外乡镇的五条主要道路,竟然全部走遍。
也就是说为了到外渡头,走塭子内道路;
为了到埔顶,走七股路;
为了到同安寮,走麻豆路;
为了到番子寮,走将军路;
为了到糖厂,走学甲路。
其实,外诊并不远,但这样跑的机会倒是少见。
远地的外诊偶而会有,一个月顶多一两次而已。
我外出看诊的主要地区都在佳里本部落为多,距离不远,主要的还是以骑脚踏车为主。
虽然符合节约汽油的时代,但也知道自己的地盘有多大,对将来的发展,总是觉得忧心。
不管怎么说,如果节省汽油是国内的一种新体制的话,我也没有甚么好说。
【注】
【1】《台湾艺术》:1940年3月4日创刊于台北市。
由黄宗葵个人经营并挂名编辑。
为日治时代发行量最大之大众文艺杂志。
1944年由于战局恶化,受情报局之命令,更换杂志名为《新大众》。
1945年4月停刊。
1946年改名为《艺华》再发行至通卷63号为止。
【2】《南方》:原名《风月》,1935年5月9日创刊,由活跃于台北大稻埕的古典诗人所发行,内容多为花柳、掌故、史遗、诗文、通俗小说等,属绅商阶层的诗文学杂志。
1937年停刊后复刊,题为《风月报》,小说家徐坤泉主持编务后,该刊转向现代通俗文艺发展。
1941年7月1日起,杂志更名《南方》,编辑方针偏重国策宣传,由吴漫沙担任编辑,此后又改为《南方诗集》月刊,1943年10月被迫停刊。
【3】《中央公论》:1899年由《反省杂志》改题为《中央公论》,发行迄今已一百年以上之综合性杂志,为日本言论界之重镇。
【4】《台湾文艺》:1934年11月5日创刊,1936年8月停刊。
张星建为编辑人兼发行人,发行所为台湾文艺联盟。
【5】《台湾文学》之误?
:吴新荣认为户田氏所说的《台湾文艺》可能记忆有误。
因为该刊已于1936年停刊,而《台湾文学》于此年(1941)5月创刊,内有吴新荣的新作,故吴新荣怀疑户田氏所说的是指后者。
【6】交趾支那:汉武帝灭越南,置交趾郡。
故日本称越南为交趾支那。
