日本ニュース 第60号
1941年(昭和16年)7月29日
[1]豊田新外相各国使臣と会見 02:10
国際情勢複雑にして微妙な動きを見せている折から、豊田新外務大臣は7月25日、外相官邸に各国使臣を招き、就任の挨拶を述べました。まず現れたクレーギー·イギリス大使は、日英通商条約廃棄通告を翌26日に控えての初会見。駐日以来9年、外交界の長老グルー·アメリカ大使が現れました。アメリカ時間で言って、同じ25日に発表された日本の在米資産凍結令や、26日発表されたフィリピン軍をアメリカ軍に編入するとの報告を、どのような感慨をもって眺めているでありましょうか。次いで、スメターニン·ソ連大使。独ソの開戦以来すでに1ヶ月。この間、あまり表面に姿を現さない大使ではあります。日仏印共同防衛という、東亜共栄圏確立の上に重大な意義をもつ了解が、ついに成立を見るに至ったのは、7月26日であります。アンリー·フランス大使の責務は、蓋(けだ)し大なるものがあります。数日后、誓いも固くドイツと共に戦うイタリーのインデリ大使。最后に戦勝の意気に燃えるオットー·ドイツ大使がおなじみの顔を見せ、豊田新外相と歓談しました。かくて外相は、在京の外国大公使35名に就任の挨拶を終わり、いよいよ困難なる外交戦に乗り出しました。
[2]ルーズヴェルト大統領独立祭の演説 00:44
ルーズヴェルト·アメリカ大統領は、アメリカ独立記念日の7月04日、ハイドパークの同私邸内図書館から全米に向かって放送しました。その放送の中に曰く「我々は国歌と国旗に向かって偉大な誓いを繰り返す時、我々はその義務と意志に忠実であらねばならぬ。必要とあらば我々の生命を捧(ささ)げるべきである」。この演説の直后7月07日には、突如としてアイスランドに進駐を完了しました。かくて今次の対日経済圧迫施策の展開を見るに至り、太平洋に、大西洋に、その動向はきわどい瞬間を目指して進むかのごとくであります。
[3]日本医科大学生診療報国隊の活動<週間話題> 00:52
医者にも薬にも恵まれぬ医者のいない村へ、今、全国の医学校·学生を動員して、無医村診療報国隊が送られています。この診療隊の活躍ぶりを医学博士の肩書きをもつ文部大臣の橋田さんが、親しく視察しようと雨上がりの7月24日、まず東京府下南多摩郡由木村(ゆぎむら)へ出かけて行きました。ここでは日本医大の学生16名が、村人の感謝を浴びながら健康日本の建設に尽していますが、橋田さんは専門の知識を傾けて教えたり激励したりしました。
[4]宮城県下に国学院大学生の慰問<週間話題> 00:41
これは国学院大学学生有志、三人一組の地方慰問隊。診療報国隊に対して、文化面から翼賛の誠を捧(ささ)げようという紙芝居組で、宮城県下に出かけて頭脳的に鍛錬の夏を頑張っています。
[5]千葉で藻の増産<週間話題> 01:00
昆布や天草など、我々の生活に役立つ海草類も、石灰藻類(せっかいそうるい)やトラノオなどという外敵にあうと次第に荒らされてしまいますので、こうした外敵を削り取って有用海草の増殖をはかるために岩面掻破機という、いわば海岸用のほうきが発明され、今、農林省を中心に全国の海岸で雑草の掃除を進めています。これはそのうちの一風景。千葉県江見海岸の清掃作業ですが、こうして滑らかにされた岩の表に昆布や天草を植え付け、水面から5~6ヒロ(尋)のところまで潜水服で潜って、この作業を行います。やがて海の中に立派な海草の林ができるようになれば、アジ、タイ、アワビなどがここに集まり、沿岸漁民にとっては非常な利益となることが期待されています。
[6]北支五省で華北電影巡回映写<週間話題> 00:45
北支五省の町や村。そこにはいまだに文化の流れからほど遠く娯楽と名づけるに足るものを知らないところがたくさんあります。その町や村へ今度、華北電影の手で組織された巡回映写班が、映写機と映写幕をトラックに詰め込んで今、巡回しています。文化の光に恵まれぬ町や村、その中には汽車さえ知らぬところがあるのですから、ましてや映画は驚くべき不可思議です。その不可思議を持ちまわって宣撫(せんぶ)工作を続ける映写班の人たちはそれだけに楽しみもあり、悪天候や悪路にも耐えていかれると張り切っています。
[7]聖地に集う数十万五台山開廟大会 01:16
北支那山西省の東北方、5つの峰よりなる五台の聖地は我が皇軍の心からなる治安確保によって無事に守られていますが、陰暦の6月01日(いちじつ)、全国より集う善男善女、数10万参会のもとに、第2回五台山開廟大会が盛大に催されました。東台、南台、西台、北台、中台(ちゅうだい)よりなるこの五台のうちで、中台は一番高く、海抜3040メートルといわれ、五台内外の寺院の数は300あまり、その僧侶の数は1000余名。全会期1ヶ月、この間、種々の行事が連続的に行われ、そのうちの菩薩頂の長期の行事は、最も異色ある催しであります。実に五台山開廟大会は支那随一の盛大なる廟会(びょうえ)であります。
[8]上海戦跡めぐりその1 03:08
昭和12年08月、盧溝橋一発の銃声が起こってより1ヶ月、暴戻なる支那軍の凶弾に我が大山海軍大尉倒れ、戦禍ついに上海に及ぶ。かくてここに4星霜(せいそう)、今は皇軍の威武(いぶ)の元に大上海は治安を回復したりとはいえ、興亜の宣揚に散った我が勇士たちの思い出は、夏草茂る新鮮場に熱い感謝の念を禁じえないものがあります。
<バスガイド>
「皆さま、大変お待たせいたしました。これからご案内申し上げます上海郊外には、先の上海事変、今度の支那事変に、我が皇軍の勇姿の肉弾あいうち、激しい戦いをいたされた箇所が随所にあるのでございますが、本日はそのうち、特に有名な箇所だけをご案内申し上げます。
皆さま、右手の建物が陸戦隊本部になっております。ご正面には(音声中断)御紋章がございますから、通過の際は御敬礼を願います。シソウハタアのサンカンクン建物の屋上には軍艦旗が翩翻(へんぽん)と翻り、八万在留邦人の守りとしての力強さを示しております。本事変におきましては、敵集中射撃の目標となりましたため、建物には当時をしのぶ無数の弾痕がございますからご注意くださいませ。
皆さま、向こうに見えます煙突が日本人墓地でございます。本事変におきましては、我が陸戦隊の手によって日々、生かされました陣地の一つでございまして、当時陸戦隊の勇士があの煙突の内側をのぼり、煙突から首を出して敵陣を視察したことで有名でございます。この向こう側、閘北(ざほく)一端、最も激戦の展開された地域でございます。商務印書館、上海駅、鉄路管理局、四行倉庫など最も頑強な敵陣地でございました。
皆さま、こちらが八字橋(はちじきょう)でございます。先の上海事変には、我が陸戦隊の激戦地として有名でございます。本事変におきましても、不思議にもまた歴史的戦場となったのでございます。当時、戦いがどんなに激しかったかは、当時○○部隊長は「最后の一兵は、機銃と弾薬をこのクリークに捨てて死ね」という悲痛極まる命令を発せられたことでも、伺われるのでございます。あのいちょうの木は、最初、我が軍が偵察に使っていたのだそうでございます。なお、当時の戦況におきましては、あちらの立て札に詳しく書いてございますから、どうぞご覧下さいませ。」
