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吴新荣日记>19410407

昨日の冷气は遂に严寒となり、さては雨さへ降り出した。
この天气の变动は时々吾々に闲を与へるので、それを利用して台南へ行くことになった。
丁度叔父や黄干氏も台南へ行くと云ふので、ハイヤを赖んで后营から回って行くことになった。
それは方沁氏に赖んで、出来るだけ早く原料系长に面谈して贳ふ为めである。
それで西港に回って黄吉山君夫妇も伴ってバスに乘り换へた。
台南に着いて先づ轻铁会社に行って寿坤の通学券を买ひ、后、帝国商事へ行って这般の经济违反の事情を听取した。
后、吉山君の为め厚生药局に案内して药品を注文してから、黄平坚君の天乐茶庄に赴き、晚餐を共にした。
それから松金ホテルに宿ってゐる李自尺君を诱って町へ巷へ步き语った。
今朝早朝黄奇珍宅に赴きて、检举された事情とその对策を闻いた。
时々注意してゐるが、この善良なる友人が经济违反で举げられたのはどうしても腑に付か[落ち]ない。
家族に慰安と激励の言を与へた后、佳里に归って来た。
午后三时、北门社神[神社]にて杨万寿君が神前结婚を行ふとて雪芬と亚姫子三人で出席した。
简单で质素でやれるこの种类の结婚式は认むべき点が多くあった。
式后、番子寮の本宅にて披露宴があった。
そこで陈穿、黄朝篇、陈清晓、庄培初诸君と会ったので远虑なく泽山饮んだ。
因みに万寿君は东京同学のものであり、その次兄の万禄君は佳里の豪商であり、またその长兄の万福君は组合の同僚であった。
昨天的寒冷天气,演变成严寒,最后还下了雨。
这种天气的变化带给我的是闲暇,干脆到台南走走。
正好叔父和黄干氏也要南下,就叫计程车,绕道后营之后南下。
去后营是去拜访方沁氏尽快找原料课长面谈,以了解内情。
到了西港,黄吉山夫妇也要南下,就换巴士同行。
到达台南之后,先到轻铁【1】会社为寿坤购买通学车票。
之后到帝国商事听取有关此次经济违规事件之内情,然后带吉山君到厚生药局去订购药品,然后到黄平坚君的天乐茶庄一起吃晚餐。
李自尺君晚上住在松金旅馆,就邀他到街上散步聊天。
今晨一大早到黄奇珍宅,谈被检举之事及对策;
时时小心翼翼地做事而善良的友人竟然还是被检举违规,真叫人无法接受。
对他的家族说些安慰和鼓励的话,然后就回佳里。
下午三时,杨万寿君在北门神社【2】举行“神前结婚”,我带雪芬和亚姬子出席参加。
仪式简单朴实,这种方式有很多优点可使人认同。
仪式后到番子寮【3】本家开喜宴,在这儿遇见陈穿、黄朝篇【4】、陈清晓【5】、庄培初诸君,就毫无顾忌地开怀畅饮了一番。
在此顺便一提,万寿君是我东京时代的同学,其次兄万禄君是佳里的豪商,其长兄万福君是组合的同事。

【注】
【1】轻铁:轻便铁路。
【2】北门神社:为北门郡的神社,位于明治糖厂之南侧。
今改为佳里中山公园,内有吴新荣之大雕像。
【3】番子寮:位于佳里西北方,又称为北势山寮。
今分为漳州里(由番子寮、后港脚组成)与海澄里(由番子寮、北头洋、莱芊寮村落组成)。
此地昔为平埔族聚落。
【4】黄朝篇:台南县将军乡人。
与吴新荣同为沤汪公学校第一届毕业。
日治时期曾任刑事,战后曾任县议员。
吴新荣的围棋棋友。
按:日记中,偶而写成“黄朝扁”,今统一为正式名录上之“黄朝篇”。
【5】陈清晓(1911-?
):台南县将军乡人。
台南师范学校肄业。
早年于故乡苓仔寮创设织布厂。
1940年于台南县仁德乡设立东云织布厂,为战后东帝士集团崛起的开始。

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