叶盛吉日记>19400406
国家の一大なる目的の贯彻に全国民がその心と力を团结するは实に{が}我が帝国の三千年を流れる历史そのものの姿なのである。
御国の为にといふ言叶を闻くにつけても我等は何かしら温きものの自らこみ上ってくる气がいたすのであります。
辉く日章旗!
この强き正しき国に生に享けたる我々の喜びたるや、直ちに爱国の诚情としてあらはる。
そして更にこの爱国の诚は国の为に尽されし方々に对する尊敬の念{の}としてあらはれ、战场にて活跃されし方々に对し何かしら崇高な感にうたれるや【う】になるのであります。
御国の为に尽されし方々に对する国民の至情とはとりもなほさず爱国の赤诚なりと云ふべし。
サル!
万年少尉【1】と称へしは我等が入学直后の事なりき、严格なる先生に对する生徒のわんぱくなのだ。
あの当时は确かつらかったらしい。
然しつらき中にも自と心と心の接触、精神と精神奥底を流れる一つのつながりが结ばれて居たことは断言し得る。
世の中にはよくある事、例の福井县の某女学校に行かれた青木【2】先生は、私共と四年を共にしたのだが、先生の诚意、泪のくんくわいに对して、遂に四年间我々先生をして满足あらしめなかった。
これを以て先生の诚意生徒に通ぜずと云へようか、否心の奥底はちがうとくみ合はされて居たのだ。
あらはれないのだ。
コンヂションがそうあらしめなかったのだ。
されど并し先生に对して、それは当に福井县へと夜行で立たれる最后の夜だった。
驿をうめる生徒の群こそ、四年间先生を苦しめた私共だった。
私は未だかつて、斯くも多くの见送を见たことがない。
青木先生万岁の叫こそ、我等が四年间の感谢とおわびの叫に外ならぬ。
昭和十二年09月、それは私共二年の事、东【3】先生应召せられ、我等が前を去り行かれる场面またこれと异ならず。
更に10月死をとして段上にて最后の训辞をあたへらる先生の姿の崇高なる事、七百生徒の心は今や先生に对する至诚の激励と化して、万岁の叫今尚耳もとにあり。
去りて!
そして再びこの段上に立たれし先生の姿は实に尊严な感に打たれるものがあった。
【4】以前の东先生とちがって今日の东先生は既に我々の尊敬おくあたはざる教官となられたのだ。
人のこえ行く山川几千百里!
されど奥底を流れる绝えざる流こそ、诚なのである。
精神と精神の结合なのである。
何ものよりも一层固き结合なのである。
断呼!!
矢の如く矢の如驰せ来る。
あヽ[ゝ]矢の如く、一木[本]道を白马にまたがれる武士は、人と动物、动の调和の美を示して矢の如く!
前方より来る一团に突っ迂み、左右に拂ひけちらして中央突破、どっしりとした重みを感ぜしめて、すべてをなで伏して飞びこえのりこえ矢の如く、山あり、川あり、されど一直进、すこしもあやまらず、あヽ快なる哉、矢の如し。
(昭15.
04月06日
夜
九.〇〇
自由室にて──)
为了国家一大目标的贯彻,全国民将心与力团结,正是我帝国岁月悠悠流传三千年历史本来的样貌。
每次听到“为国家”这句话,我们会感受到一股暖意涌上来。
光辉的日章旗!
我等可以生长在这个强盛的正派之国的喜悦,马上表现为爱国的盛情。
而这个爱国之诚更是对为国竭尽心力者,表现成为对每个人的尊敬之意,对在战场中活跃之人,涌起着崇高之敬意。
对于为国家尽心的人,国民的真心可谓是爱国的赤诚。
“猴子!”我们戏称为万年少尉的老师,是在我们刚入学的时候,因为严格而被学生捉弄的老师。
那时真的有点辛苦,不过在辛苦当中,流露着发自内心的心灵交会,可以断言在师生心神交会之处有一种连结。
世界上常有的事情是,像那个调职去福井县某女学校的青木老师,虽然教了我们四年,对于老师的诚意,泪水汪汪的样子,我们终究在四年的期间无法让老师得到满足。
看到这样的情形,怀疑老师的诚意是否无法传给学生,事实上不是这样的,是因为内心底组合不同,无法表现出心底相通,没有显示出那种相通的状态而已。
不过,我们对于老师的表示,是在那要坐夜行列车前往福井县的最后一夜。
将车站挤满的学生们,正是这四年让老师非常痛苦的我们。
我从来也没看过这么多送行的学生。
向青木老师呐喊万岁的声音,正是代表我们四年间满满的感谢与歉意。
那跟在昭和十二年09月,那是我们二年级的时候,东老师受到军队应召,离开我们的情形场面是一样的。
10月,老师更是以死为诀别,在讲堂上讲训最后的训辞,那崇高样貌,七百名学生的心成为对老师的至诚激励,万岁之声(万岁的嘶喊声)尚留耳际。
离开,而再度站上台上的老师的样子,实在是充满着尊严之感。
与之前的东老师不同,今天的东老师已经成为一位值得尊敬的教官。
穿过山川几千百里!
只有在底下不会流断的涓涓细流,才是真正的赤诚之心,也才是真正精神与精神的结合,且是比任何东西还要坚固的结合。
呜呼!
光阴如箭一般流逝,啊!
就像箭一样。
一个骑著白马的武士在一条直路上,人与动物、动态的调和之美,就像箭一样的穿过!
冲向迎面而来的一团,驱逐左右,突破中央,感受沉甸甸的重量,制服了所有,飞越、穿越,如箭一般。
有山、有河,但是一直线前进,丝毫无差。
快哉!
如箭!
(昭和十五年04月06日夜九点于自习室)
【注】
【1】记主1936年入学时,根据1925年的“配属令(陆军现役将校学校配属令)”配置在一中的配属将校(教官)应为野野木文雄。
野野木为日本德岛县人,一九三五~1937年为台南州州立台南第一中学校配属将校(1935年军阶为大尉,一九三六~1937年军阶为少佐),1941年任职台湾防空委员会台南州委员。
当时居住于台南市三分子。
至于捉弄配属将校等行径,则是旧制高校生的特有文化。
(郑政诚,〈战时体制下台南师范学校学生的军事训练与动员(1937-1945)〉,《国史馆馆刊》,第四十一期(2014.9),页161;
徐圣凯,《日治时期台北高等学校与菁英养成》(台北:台湾师范大学,2012,页89);
《台湾总督府职员录》,中央研究院台湾史研究所“台湾总督府职员录系统”,野野木文雄,2016.5.25阅览,http://who.ith.sinica.edu.tw)
【2】青木:青木纪元,台南州州立台南第一中学校教谕。
1940年转至日本福井县武生高等女学校任职。
(台南第一中学校校友会杂志部,《校友会报纪元二千六百年记念号》,台南:台南第一中学校校友会杂志部,1941,页147)
【3】东:东次吉,日本福冈县人,一九二九~1940年为台南州州立台南第一中学校嘱托,1941年任职文教局社会课,一九四二、1944年任职台南州总务部教育课。
当时居住于台南市三分子。
(《台湾总督府职员录》,中央研究院台湾史研究所“台湾总督府职员录系统”,东次吉,2016.5.25阅览,http://who.ith.sinica.edu.tw)
【4】东次吉老师于1940年04月06日再次返回台南第一中学校任教。
(台南第一中学校校友会杂志部,《校友会报纪元二千六百年记念号》,页146)
