年月日:1939:19390220:19390220-h-roc-s27-006-吴新荣日记



吴新荣日记>19390220

昨夜散会后、吾等一行谢振声、蔡丛、吕成宝、谢谦博、黄明富诸君は又台北に出驱[挂]けた。
大稻埕界猥[隈]にうろついて、茶と酒を饮み步いた。
结果何も得ずして又佳山旅馆に戻って来た。
旅行は休养と享乐を得る为めもある。
然し昨日は却ってその反对效果を得た。
即ち得たのは疲劳と苦痛である。
然し旅行は山水と人物を接する为もある。
今朝起きて吾等はゆっくりこの景胜を味ふ为めに旅馆で休んだ。
佳山はやはりいい所だ。
水は嗫き、气は清し、山は青く谷は深し、又一度来て见たい所だ。
然し旅は又长しだ。
今晚に归途に着かねばならない。
又陈逸松君と杜聪明博士と会はねばならない。
それで午食后又例の一行と台北に戻った。
先づ谢振声君を访ねて事务引继と访问案内を赖みたいと思ったが、未だ病院から归って来なかった。
それで黄明富君とだけ陈逸松君を访ねた。
陈君は快く迎へて下れて、早速时局谈に花を笑かした。
やがてお互いにサインして别れた。
然し何んと云ふ耻しいことだ。
私は“一将功成万骨枯”の“功”の字を“攻”に书いてしまった。
然しこの平和主义の句に“力”の代りに“文”を书くことも意义があるだらう。
即ち“暴力”でなくして“文化”と云ふ表示であればいい。
そこを别れて早速、蓬莱阁へ行って黄百禄、ルビー、黄瑞传、黄西河、藩揖【1】诸君と会った。
やがて黄明富、谢振声两君も来たので、そこで台北でも最后の宴会を开いた。
昨夜散会之后,我与谢振声【2】、蔡丛【3】、吕成宝、谢谦博、黄明富等一行上车直驱台北,在大稻埕一带蹓跶,喝茶、喝酒,信步而行,觉得没趣,遂返回佳山旅馆。
旅行为的是休养和享乐,昨天却是与此相反,一事无成,得到的只是疲劳和苦痛。
然而旅行也可是为了接近山水、人物。
今天早起,我们悠然地欣赏胜景,在旅馆休息。
佳山毕竟是个好所在,小溪的淙淙声、空气清新、山青谷深,是个以后可以再来的地方。
但旅途还很远,今晚非得踏上归途不可。
但非得见到陈逸松君和杜聪明博士不可。
故,午餐后,几个好友走向台北,先访问谢振声君,会务接办一事请他做,并请他做访问向导。
他人在医院,还未回家,就和黄明富君一起去拜访陈逸松君。
陈君迎接了我们,很快把话题转到时局,谈得很兴奋。
不久互相签名留念,之后就告辞了。
觉得很丢脸的是把“一将功成万骨枯”的“功”字写成“攻”字;
但想一想,此一和平主义的句子“力”字旁变成“文”字旁,也可以有某种意义在,即去除暴力,改为文化何尝不可。
告别之后很快回到蓬莱阁,与黄百禄、琉美【4】、黄瑞传【5】、黄西河、藩揖【6】等会面,不久黄明富、谢振声两位也来到,开办了在台北的最后一场宴会。

【注】
【1】藩揖:应为潘作楫。
【2】谢振声:彰化市人,彰化市北门德生医院长谢德斌长男,医学博士。
台湾总督府台北州立台北第一中学校学生。
吴新荣就读东京医专时的同学。
自东京医专毕业后,在东京帝大研究细菌卫生学,后在台北病院研究皮肤花柳病科。
台北帝大创设后,再入河石外科研究。
后返彰化开业。
【3】蔡丛:彰化县员林镇人。
日本东京医学专门学校毕业。
于员林开业“蔡眼科”,吴新荣心目中最成功之同期同学。
【4】琉美:黄百禄之第二夫人。
日文日记皆称ルビー夫人。
汉文日记则不统一,“女美”、“吕美”、“尔薇”、“女薇”、“琉美”五种名字。
然不知其本名为何。
【5】黄瑞传:高雄市人。
1926年毕业于东京医专,吴新荣的学长(高6班),并获得东京帝国大学医学部霉菌学教室研究医学博士学位。
1927年加入高雄台湾人医师会(高雄医师组合前身)。
曾任职于日本东京市养育院医局、东京本乡御茶水顺天堂病院、高雄市卫生院。
【6】藩揖:应为潘作楫,高雄人,1937年毕业于东京医学专门学校。

年月日/1939/19390220/19390220-h-roc-s27-006-吴新荣日记.txt · 最后更改: 2025/07/26 11:53 由 127.0.0.1