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年月日:1939:19390208:19390208-h-roc-s27-006-吴新荣日记



吴新荣日记>19390208

《文学的诊疗簿》读了。
昨今の患者の少きことは实に悲观的である。
せいぜい三十名位であるが、二十圆足らずの收入ではとっても困るのだ。
纳税期は来るし、例え地租は少くても义务贮金は相当ある。
それに家族の保险料纳期も迫って来るし、その上、东医会に出席する为めに台北に行かねばならない。
03月に入る迄には药屋に支払ふ分と合せて、どうしても六、七百圆は必要である。
それだのに现金は已に使い尽してゐるし、又后の造营で日々出费しなければならない。
私は遂に永久に贫乏しなければならないだろうか。
それとも私の无预算的な出费はいけないだらうか。
ああ最后の场合は讲会にも入札して见よう。
どうせ旧历の年末と云ふもののそんなにかさばった药代の挂金を回收する见迂はないのだ。
こんなに贫苦に袭はれては、吾々はも早や世间并の信义を坚持することが出来ない。
贷金は何时も赠与の积りで贷したら间违いがない。
然し借金だけは何时も立派に返环[还]せねばならないのだ。
吾々はまだそれだけ惰[堕]落はしてゐないのだ。
他人を信じ得なくても自己を信じなければならない。
それだけは自分の生きる途かも知らない。
それ故に私は患者の少なきを悲しむべきでないと言ふ自慰を持ってゐる。
否、患者少なきはむしろ天下泰平の征象[象征]ではないか。
昨日、王乌硈先生が来访した时、西港组合医院も患者が四、五十名位の少なさである。
沤汪の叔父も少ないし、台南医院も慈惠院も少ないと云ふ。
それで吾々はやっと安心した。
患者少なきは天下泰平と云ふこともあるが、吾々は“出费多端”と“劳动强化”の二因子も算入しなければならない。
然しその为めに私に暇が出来て读书し得る时间が出来れば、却って一つの天惠とも云へる。
お荫で今日は《文学的诊疗簿》(式场隆三郎着)を读んでしまった。
又《バイロン诗集》(松山敏译)をも读んでしまふかと思っている。
拾い读みでもいいから泽山の本をじゃんじゃん读んでしまいたいと思ふ。
读书もいいが、吾々は色々な计画に耽けることもいいことだ。
それはよく云へば稀[希]望だが、恶く云へば空想だ。
とにかく空想でもいい。
吾々は来たるべき台北行を乐しみにしてゐる。
先づ怀しい古い友人と会って语り、尊敬すべき先辈を访ねて敬意を表することは望ましいことだ。
第一に、杨云萍君を彼の山房に访ねて文学を语り、陈逸松君を彼の街头に访ねて世情を语らねばならない。
又、杜聪明氏や永井先生又は陈宗惠先辈と会って、私の署名簿にサインして贳はねばならない。
出来ればもっと泽山の人に会て、もっとロマンチックに数日を过したいと思ってゐる。
《文学的诊疗簿》读完。
昨今两天患者很少,实在悲观。
顶多三十多名,一天不到二十元的收入,令人困惑。
纳税期已近,地价税纵然不多,但义务储金相当多,加上家族的保险费纳期逼近。
而近期也得上台北参加东医会。
进入03月份,得支付药品商的款项,至少要集到六、七百圆才够。
而至今现金已用尽,而屋后的营建每日皆须付现款,最后,我也许是穷困渡日了。
也许不能在没预算的情形下花费,最后,参加民间标会也许是可行的。
旧历年末,习惯上要还清欠款,而累积这么多病人的医药费,要全部回收看来也无望了。
被如此贫苦所袭击,要坚持一般社会的信义作为,几乎不能做到了。
借与他人的钱,都心存赠与之念而借出的,结果必然无归;
但向人借钱,我一定要还得干干净净。
我未曾做过堕落的事情,要是不能信任别人,至少也应信任自己,只有如此才是自己生存之道。
正因如此,对于患者的稀少一事,我是不该感到可悲的,我这样地安慰自己。
不,患者少了,不正是天下泰平的一种征象吗?
昨日,王乌硈先生来访,告诉我西港组合医院患者也很少,每天只有四、五十名左右。
沤汪的叔父那边也是如此。
台南医院、慈惠院都是如此,这么一说,我就很放心了。
患者少,就是天下泰平;
而我们还应加入“开销多端”和“劳动强化”两个因素。
为此我空出的时间可以多读书,反而可说是天赐之惠呢!
因此,今天才能读完《文学的诊疗簿》(式场隆三郎着)一书,也许也能读完《拜伦诗集》(松山敏译)。
部份选读也好,想把堆积如山的书全部读完。
读书是美事,而我也常沉迷于各种计画,也是美事。
往好的说是希望,往坏的说就是空想。
就算空想也不错。
将来临的台北之行好期待,跟故友见见面,拜访我尊敬的老前辈,以表敬意是可喜的一件事。
第一件、到杨云萍【1】君的山房去拜访他,谈些文学;
到陈逸松【2】君的街头拜访他,谈些世态;
还有,去跟杜聪明【3】先生、永井先生【4】、陈宗惠【5】前辈们见面,并请他们在我的签名簿上签名。
能够的话,访问更多的人,然后过几天更浪漫的日子。

【注】
【1】杨云萍(1906-2000):本名杨友濂,台北市士林区人。
史学家、文学家。
先后毕业于台北州立第一中学(今建国中学)、日本文化学院文学部创作科。
曾与友人创刊台湾最早的白话文艺杂志《人人》,与西川满发起“台湾诗人协会”。
其研究以南明史、台湾史为主。
曾任《台湾民报》主笔、台湾省文献会委员、《台湾风物》月刊主编等。
著有《山河》、《开战前の东京》、《杨云萍诗抄》、《台湾史上的人物》等。
于东京时,由陈逸松介绍而认识吴新荣。
【2】陈逸松(1906-1999):宜兰县罗东镇人。
于日本冈山就读第六高等学校时,与吴新荣认识。
日本东京帝国大学法学部政治学科毕业。
于东京任辩护士(律师)两年后,回台湾于台北开“陈逸松法律事务所”,成为日治时期著名的“人权律师”。
1934年当选台北市第一届市会议员。
战后授命筹组“三民主义青年团”,并与苏新、王白渊、陈逢源等组织“台湾政治经济研究会”。
1972年经日本、美国到中国后,出任两届中央人民代表大会常务委员及两届的政治协商会议常务委员。
后离开中国,于美国过世。
【3】杜聪明(1893-1986):字思牧。
台北县三芝乡人。
1922年日本京都帝国大学医学博士,为台人第一位医学博士。
倡办私立高雄医学院,任院长。
【4】永井先生:永井潜(1876-1957),日本广岛县人。
生理学家、医学博士。
东京帝大医科大学毕业后,先后留学德国、英国、法国。
1937年3月东大教授退休后,转任台北帝大医学部部长。
1938年转赴中国北京大学,主持医学院,致力于中国人医师之培养。
战后返国。
著有《人生论》、《生命论》、《生物学与哲学之境界》等多种。
【5】陈宗惠(1893-1961):嘉义市人。
东京医专、慈惠医科大学研究科毕业,医学博士。
1927年参与台湾民众党,担任台南州嘉义支部常务委员。
1930年开设英安堂医院,同年任嘉义市协议会员。
1937年基督教长老会南部大会即聘请陈宗惠医师为第四任彰化医院院长。
1938年10月因父丧请辞院长返回嘉义开业医院。
战后任嘉义第一信用合作社理事。

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