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吴新荣日记>19390102

昨夜の暴饮、不眠で今日は完全に体を坏はした。
雪芬は早い内买物に间に合ふべく出驱けた。
私はゆっくり休んで起きた后、南星、文三、淑子等の子供达を连れて出驱[挂]けた。
黄百禄君の所で彼等と会って、今日の行动を决めた。
即ち彼等は虎头埤へ行って、午后又会ふことになった。
私は即ち三人の子供を连れて宫古座へ行って见た。
街に[を]步いて见ると、本岛人でも和服を着てゐるのは大分目立て[っ]た。
特に晴着をしてゐるのを见ると、やはり绮丽に见えた。
宫古座へ入って见ると、お客は四、五人位であった。
もう已に映写しているのにお客の少ないのは少なからず惊いた。
映画は“燃ゆる黎明”と洋画“ボルネオ”等あった。
前者は吕赫若原著のを旧剧に改作したとのことだ。
后者は记录映画として见る价值があった。
后、林デパートへ行って雪芬と会ふ约束をしたが食堂が满员なので松金食堂で昼饭を摄った。
午后四时、黄奇珍兄から车を派して昭癸兄の所にある雪芬等を迎へて来た。
奇珍兄の妹が今日、帝国商事の店员と结婚式を举げて、招仙阁で披露宴をやるとのことである。
私も一绪に行って见た。
腹を坏してゐた为、面白くはなかった。
それでも最后迄顽张った。
后、雪芬等と郭维钟君の宅に泊ることになった。
晚は郭君と又黄氏を会ふべし[く]出驱けた。
因为昨日的暴饮、不眠,导致今天觉得整个身子都弄坏了。
雪芬趁早外出购物,我就稍做休息,之后带着南星、文三、淑子等小孩们出门。
在黄百禄君的地方等着和朋友们见面会合,以便决定今天的行动。
结果他们要先去虎头埤,下午再会合。
于是我就带着三个孩子到宫古座【1】去,在街上看着本岛人也穿着和服,相当显眼,盛装打扮,相当漂亮。
进入宫古座一看,只有四、五个观众,片子已开演,观众竟然还这么少,令人讶异。
片名是“燃烧的黎明”和洋片“婆罗洲”。
前者是由吕赫若【2】原著所改编成的古装剧;
后者是纪录片,有一看的价值。
约定在林百货公司【3】和雪芬会合,但餐厅已客满,就一起到松金食堂吃午餐。
下午四时,黄奇珍【4】兄派车到昭癸【5】兄的地方来接雪芬,奇珍兄的小妹今天和帝国商事的职员在招仙阁举行结婚喜宴,我当然得去参加。
因昨夜吃坏肚子,觉得食不知味,但还是撑到散会。
之后和雪芬等家人在郭维钟【6】君的家过夜。
晚上和郭君一起外出,去跟黄氏见面。

【注】
【1】宫古座:即今台南市延平戏院。
日语“座”为剧场、电影院。
【2】吕赫若(1914-1950):本名吕石堆,台中县丰原市潭子人。
音乐家、小说家、革命家。
台中师范学校毕业。
因崇拜朝鲜作家张赫宙及中国作家郭沫若,故以“赫若”为笔名。
1950年参加“鹿窟武装基地事件”,传言死难于台北县石碇附近的鹿窟。
著作有小说集《清秋》(1943年)等。
【3】林百货公司:日人林方一创于1932年,并由日本技师梅泽舍次郎设计建筑,俗称“五层楼仔”。
位于今台南忠义路与中正路交叉路口,土地银行对面。
此区域旧区名为“末广町”,是日治时期最繁华,也是商业最兴盛的街道,其繁华的景象,也让本区赢得了“银座”之美名。
而“林百货”,有南部首创的电梯,与台北荣町之“菊元百货”并称为南北两大百货大楼。
战后被台盐公司占用,现正修复中。
【4】黄奇珍:台南县白河镇人。
吴新荣就读台湾总督府商业专门学校豫科时的同学,为吴新荣的终生契友,最称莫逆。
原名“寄珍”,吴新荣改称呼“奇珍”。
又,日本名为宗原宽。
吴新荣所著《震瀛随想录》仅有二序,冠首即为寄珍序。
【5】昭癸:毛昭癸(1907-1967),台南县六甲乡人。
吴新荣的内兄(二舅子)。
父毛维麟(日治时期大正年间曾任六甲庄长)。
日本明治大学毕业,战后初年曾任六甲乡长、台北市自来水场课长。
【6】郭维钟(1907-1949):台南县麻豆镇人。
台北商工学校毕业,任职于嘉南大圳组合。
“台湾文艺联盟佳里支部”会员之一。

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