叶盛吉日记>19480906

09月6日(月)

小雨
疲れて居るので皆で三轮车で震旦大学【1】へ。
此处はフランス系の学校で、建物がすばらしい。
医学院は四层楼の大きい建物で、运动场は绿深くきれいだ。
院长の富来梅【2】先生はフランス人でキレイなフランス语で案内して吴れた。
见たのは外科实验室、解剖教室。
割合きれいだ。
器械は大抵フランス制だ。
附属病院及博物院は予约せぬと见れないので次の机会を约した。
次にフランス公园に出る。
树木の线がきれいだ。
花坛も手入れがよい。
お向ひが且てのフランス人の学校。
妙な线を持った建物だ。
黄红の屋根瓦が特チョウだ。
雁荡路【3】へ出る。
裸踊は以前あったが今禁止されてゐるさうだ。
大世界【4】は日本で云へば浅草でお上りさんを吸收するやうなところ、学生等がは入ると看不起されるとの事だ。
どの店も商品がギッシリだ。
中食をすました胡氏とGardenBridgeの方へ出る。
映画“BlackMarrow”を见る。
冷房装置とレンーバーがあった。
金圆になってからの上海は殆んどPoliで维持してゐる。
一流の商人は美国へ、二流のは香港へ、三流のは台北へと逃避しつゝある。
店に出てゐる商品は仕方なく卖ってゐるけれどもStockはかくせるだけかくさんとしてゐる。
法币は依然として流通してゐる。
电车で杂踏の中を静安寺【5】へ。
ブラリブラリと步いて南昌路の张锡祺先生の宅に下午6时つく。
小雨から大雨に变つた。
叶先生と色々だべる。
中国の近代医学をひらいたのは日本留学生だが现在日独派は政治的に败れてP.M.C.の英米派のものに重要なPointを占められてゐる。
勿论日独派のものも各方面には发展してゐるけれども。
日独派、英米派、佛派と分けられる外に、欧洲留学のものがまた1つの派をつくって、互に喧哗ばかりしてゐる。
英米派のは实に团结がつよく、政治的の面で活跃するものはその面で活跃し、研究するものはその面に专心してゐる。
中华医学会【6】はP.M.C.の系だ。
中国では、例へば上海等には大学は大いが〇〇学会等といふのは少い。
只生理学会、地质学会、法学会だけが世界的にいい。
中国人は酒をのんでも醉はない。
醉って足を出さうものなら直ちに马鹿にされる。
又女の权力の强いところだ。
之は数千年の压迫に抗して生じた女性の自卫力のあらはれであらう。
“骆驼样子に出る亲方の娘はそのよい例だ。”“不拍[怕]官、只拍[怕]管(权)”といふ言叶はタン的に上海に于けるclassの问题を物语ってゐる。
台湾に于て我々は过去に于てGapを犬と云う、现在では亦外省人をBerg.といって憎恶の对称となってゐるが、こちらにくるとBerg.なんてことはもう一笑だにもしない。
即ちこちらではあらゆるClassの人が集って一つの社会构成をなしてゐる。
そこには贫乏人、花子もあり、人力车夫、三轮车夫、物卖、难民、ハイヤーにのるもの、Poli、商人、门番等あらゆるものがある。
そこには只Classの问题はあってもRaceの问题は介在しない。
然るに台湾では、生活の多少の相违からくるものがたやすくRaceの问题とからんでひいてはRace间の憎恶をかもし出すのは、所谓外来の者が一つの统治及至は支配阶级を形成してゐるからである。
外来者自体では一つの社会构成を持たない。
そこに于ては必ずRace间の憎恶はClass间の憎恶に先立つものだ。
上海にきて善良なPoorを见、忠实な召使の姿を见てつくづくさう思った。
张先生、李先生、叶先生と吾々五名でビールをのんだ。
张先生は自己の财产を殆んど东南医学院につぎこんでゐる。
岩波【7】のやうな人だ。
Formosanには少い。
上海といふのは益々妙なところだ。
そこには常に多くの问题をなげかけて、常に我々に刺戟を兴[与]へてゐる。
そこには台湾と违った别の一つの世界がある。
いや
むしろ、我々の过去の教养の世界とは违った一つの别世界でさへある。
Bilding、と商店と杂踏の表面的样相は单なる表现にすぎない。
その底には、我々のにはかに知り得ざる深刻なる潮流がうづまいてゐるある。
健全なそして完全な发达、发展を持たないこの畸型的な都市、そしてこの混杂は、常に末期的印象を与へつゝも人移り、权力者去りても尚且つ、依然として存在してゐる。
我々には早急に之が最终の末期的状态であるとは仲々断じられぬ。
暴风がつづいて天气がわるい。
雨上りのヌルヌルぬれた
夜のフランス租界の并木道を三轮车に摇られて行くのは实に爽快だ。
三轮车に摇られての町见物に限る。
上海はビールと三轮车が安い。
每日三轮车に摇られて街路を巡って
そして夜はビールをのむ。
旧フランス租界のポプラの并木路は美しい。
フランス租界もRomanticだ。
里町がどんなものだか未だ知るよしもない。
せいぜい眼についたのは野鸡位だ。
こんなに短く、また近く台北から离れてゐるにすぎないのに、何んだか、远くはなれ、すべてが过去のとばりに包まれたやうにも感じられるのはどうしたことだらうか。
旅行は苦しい。
されど常に面白い。
09月6日(一)

小雨
很累,大家就搭三轮车到震旦大学。
这是法国办的学校,建筑很漂亮。
医学院是很大的四层楼建筑,运动场的绿化做得很好。
院长富来梅先生是法国人,以漂亮的法语为我们解说。
看到外科实验室、解剖教室。
都很漂亮。
器械大多是法国制。
附属医院及博物院需要预约才能参观,因此就等下次有机会再来。
接着到法国(复兴)公园。
树木的线条很美。
花坛也经过精心整理。
对面也是过去法国人的学校。
是线条奇特的建筑。
黄红色的屋瓦是其特色。
前往雁荡路。
以前有裸舞,但听说现在已经被禁止。
大世界像是日本的浅草,是个总是会吸引乡下来的观光客的地方,学生去会被看不起。
每家店的商品都是摆得满满的。
吃完午餐与胡氏去花园桥(白渡桥)那里。
看电影《BlackMarrow》。
有冷气和雨棚。
实施金圆制后,上海几乎都靠警察维持秩序。
一流的商人去美国,二流的去香港,三流的则纷纷逃到台北。
虽然有开的店家还是继续贩售物品,但都已经开始囤积。
法币依然流通。
搭上电车在车潮中前往静安寺。
漫步到南昌路的张锡祺先生宅,已是下午六时。
小雨转为大雨。
与叶先生聊了许多。
开创中国近代医学的是日本留学生,但现在日、德派在政治上败北,当然P.M.C.的英美派占了重要地位。
虽然日德派各方面也都有所发展。
除了分为日德派、英美派、法国派之外,留欧者也成为一个派系,互相争执不下。
英美派很团结,在政治上活跃者十分活跃,研究面上也相当专注。
中华医学会属于P.M.C.系统。
在中国,例如上海等大学虽大,但很少有〇〇学会等。
只有生理学会、地质学会、法学会等在世界上有名。
中国人喝酒不会醉。
醉了还想出去会被看不起。
且似乎女权很强。
这是女性为了抵抗数千年来的压迫所培养出的自卫力吧。
摆出“骆驼祥子”的老板女儿就是典型例子。
所谓“不怕官、只怕管(权)”贴切地形容上海的阶级问题。
在台湾,过去我们将日本人称为狗,现在则将外省人叫做猪,是憎恶的称谓。
来到这里就觉得台湾的“猪”不值一哂。
也就是说,这里有各个阶级的人,构成一个完整的社会。
有穷人、叫化子、人力车夫、三轮车夫、小贩、难民、搭黑头车的人、警察、商人、保全等各种各样的人。
但这只是阶级问题,而不包含种族问题。
但在台湾,生活上的差异很容易归结于种族问题,甚至酿成种族对立。
这是由于外来者构成了统治阶级所致。
外来者本身并没有形成一个社会结构。
如此种族对立必然先于阶级对立。
来到上海看到善良的穷人,看到那些忠实的仆人更深刻觉得如此。
张先生、李先生、叶先生与我们五个人喝啤酒。
张先生将自己的财产几乎都交给东南医学院,是像岩波一样的人。
台湾人鲜少如此。
越来越觉得上海是个奇妙的地方。
经常给我们很多的问题,也为我们带来许多刺激。
这是与台湾完全不同的世界。
不,毋宁说是和我们过去的教育世界不同的另一个世界。
大楼、商店与人潮都不仅是表现出表面的样相。
背后包含有对我们而言深不可测的底蕴。
不健全且没有完全正常发展的这个畸型都市,其拥挤常给人风中残烛的印象。
这个问题在人换了,统治者变了之后依然存在。
我们还无法断定这是最后的末期状态。
暴风来了天气转坏。
雨停了到处都是湿湿的。
晚上坐着三轮车摇摇晃晃的经过法国租界的行道树真是爽快。
三轮车的摇曳只限于欣赏街景。
上海就是啤酒和三轮车便宜。
每天都可以搭三轮车逛街。
然后晚上喝啤酒。
旧法国租界种满柳树的道路很美。
法国租界很浪漫。
但还无法知道巷弄里是什么样子。
所能看到的大概只有野鸡。
尽管离台北这么近,且离开并不久,不知为何,却觉得似乎离开了很远,一切都被许多过去的包袱所笼罩。
旅行很辛苦,但也经常很有趣。

【注】
【1】震旦大学:为教会大学,由马相伯创立于1903年,最初是一群人希望学习拉丁语而聚集,慢慢演变为设立大学。
“震旦”一词源于印度古语,最初称为“震旦书院”,借用徐家汇天文台空间授课。
由传教士南从周Perrin担任校长。
但南从周趁马相伯生病时改变治校方针,采取严格管理制度,引发学生不满。
马相伯因而带领部分学生另外创立复旦公学,为后来复旦大学前身。
1912年震旦书院向政府请求立案,1914年设立文法政、医学科与理工科三科。
1932年改制为大学。
中共建国后学校撤废,分别并入复旦大学与上海第二医科大学,大学一部分原址后由向明中学继承使用。
(薛理勇,《上海掌故辞典》,页300)
【2】富来梅:R.P.Flamet,法国里昂大学病理学博士,当时为医学院院长。
(“天主教在中国创办的第一所高等学府——震旦大学之四”2019年5月15日阅览,http://www.xianxiancc.org/showart.asp?id=543
【3】雁荡路:1902年兴建,位于上海卢湾区北边。
北起淮海中路,南至复兴公园,总长零点三里。
最初名为华龙路,1943年以浙江省山名命名。
(李春芬,《中华人民共和国地名词典(上海市)》,页49)
【4】大世界:为上海著名游戏场,经营者为黄楚九。
他在1917年退出“新世界游戏场”,之后与朋友集资创立大发公司。
他在法租界找到空地,花了半年设立游戏场。
最初为木造,1924年改为钢筋建筑,内有商场、剧场、花园、中西餐馆等各种设施,规模超过新世界。
1932年黄将经营权让渡给黄金荣,中日战争时一度作为难民收容所。
1954年由上海市政府接收,1987年以“大世界游乐中心”营业,现址位于西藏南路。
(薛理勇,《上海掌故辞典》,页416)
【5】静安寺:建筑年代有许多说法,有人认为最早可追溯至汉代。
唐代称永泰禅寺,宋朝时确立名称为“静安寺”。
附近有许多著名景点,曾被人合称“静安八景”。
寺庙几经毁坏,在明代重新修筑。
1899年被划入公共租界中。
文革时期遭到破坏,1984年再次修复。
今日位于南京西路上。
(薛理勇,《上海掌故辞典》,页535)
【6】中华医学会:该会于1915年02月在上海成立,主要业务包括:开展医学学术交流;
编辑出版医学期刊及书籍、音像制品;
开展继续医学教育;
开展国际间学术交流;
组织医疗事故技术鉴定工作等。
(中华医学会简介,2019.5.15阅览,https://www.cma.org.cn/col/col1422/index.html
【7】岩波:可能为岩波茂雄,一八八一∼1946年,日本长野县人。
1900年日本中学校毕业后未能考取第一高等学校。
二十四岁时以选读生进入东京帝国大学哲学科就读,后在神田高等女学校任职。
1913年辞去教职开设岩波书店。
岩波在死后曾嘱咐后代曾捐赠大量书籍给中国大学的图书馆,并长期支持艺文活动。
(安倍能成,《岩波茂雄传》,东京:岩波书店,页505)