1946年(昭和21年)05月23日
[1]食糧難突破に起ち上る民衆 02:37
食糧の欠配遅配は今や全国の大都市を襲い、闇も買出しもできない人たちは毎日雑草を食べてその日を暮らしている始末です。一方、各地には隠匿された食糧がまだたくさんあると見なされ、配給の組織を正して早く公平に食わせろと、各地の民衆は一斉に立ち上がりました。
(小岩)
東京小岩では、米をくれと叫んで区民大会を開きました。
(世田ヶ谷)
世田谷でもおかみさんたちがプラッカートを握って、デモに参加。
(武蔵野町)
武蔵野では雨にもめげず、食糧人民管理を要求しました。
(京橋)
さらに17日には京橋区で、サラリーマンや商店員までも立ち上がりました。
(目黒)
目黒では祐天寺の境内が大会場。
(品川)
続いて品川では、元気で働けるだけ食わせろと、労働者数百がデモ。
(荏原)
荏原では学童配食を叫んで、父兄たちを先頭に、いたいけな児童さえ加わりました。
これより先、世田谷の区民は、飢えた人民の声を直接天皇に聞いていただこうと、14日正午、坂下門に集まりました。
「世田ヶ谷には来てるの。天皇がね。」
「あんた一人がだね、あんた一人でそういう。…そういう天皇の声を…」
「我々町会が来てるのをちゃんとわかっている。新聞の…」
代表者と押し問答の末、やっと5名が許されて入ると、ついに官憲側は坂下門を閉ざしてしまいました。応援のデモは刻々増加し、赤旗の歌は日本歴史あって以来、初めて大内山にこだましました。
乳飲み子を抱えた母親たちも含んだ大衆2000はあくまで座り込んで粘り、回答はついに19日の食糧メーデーに持ち越されることになりました。
[2]東京裁判再開 01:17
休廷に入っていた極東国際軍事裁判は、13日再び開かれました。再開と同時に、裁判進行の基礎となる管轄問題の討論が展開されました。東條以下が文明の敵として裁かれる理由は、起訴状に次のように明らかにされています。すなわち、日本の国民精神は他民族に対する優越感により毒されており、日本の議会制度は侵略の道具として使われ、日本人の幸福は無視され、こうして自由の基本原則も、人格に対する尊敬も壊されてしまった。
被告はこの侵略戦争により、征服地を搾取し、略奪し、人々を虐殺し、陵辱した。こうして犯した平和、人道に対する罪について、清瀬[一郎]氏以下の弁護人はひたすら法理論から抗弁しました。これに対し、検事団は額を集めて協議。キーナン主席検事より、このような犯人を自由にしておいたら世界平和は全滅するであろうと、鋭く反駁しました。
[3]政局 吉田内閣成立 民主議会開く 02:36
いたずらに混迷を続ける政局をよそに、総選挙后初の民主議会は16日開かれ、まず尾崎咢堂翁立って、議長は真に民主的に人格者を選挙すべきであると緊急動議を提出。議会政治の初舞台を踏む共産党の5代議士をはじめ、同じくデビューした婦人代議士も議席に緊張。しかし、この尾崎翁の提案も保守政党の反対で否決。従来どおりの正副議長の選挙に移り、婦人代議士、共産党の徳田[球一]氏らもバスを待つ行列よろしく選挙。かくて資格再審査で一般から疑惑視されている自由党三木[武吉]氏が議長、進歩党木村[小左衛門]氏が副議長の候補に、それぞれ当選しました。
一方、政局は、保守勢力の筋書きどおり、幣原、吉田両氏会見の后、大命は吉田外務大臣に降下。石黒[忠篤]氏より経過が発表されました。
「…問題の折、かしこくも天皇陛下から、食糧事情等もあるからなるべく早く組閣を完了し、その打開を図るようにとのお言葉を拝しました」
一方、この保守内閣の成立を知るや、全国の勤労大衆は、反動政府絶対反対、民主政権即時樹立を叫んで、都電の車庫にあるいは工場の屋上に一斉に職場大会を開催。攻勢に転じました。
「…大命の降下した吉田内閣は、我々はあくまで反対である。そしてもう一度、ここに我々のための真の民主政府をつくるために戦い抜くという決意を表明する。右、決意す。沖電気労働組合 市原支部 緊急従業員大会」
さらに首相官邸も次から次へと大衆デモが殺到して赤旗の波に埋まり、かくて日本の政局はようやく対立する保守·民主の二大戦線がはっきりその姿を現すに至りました。
[4]特報“食わせろ!”の叫び 人民大衆の力に 吉田内閣動揺 03:05
飢え死にの危険は目の前に迫っている。それなのに反動勢力は見て見ぬふりをしていると、飢えた帝都市民25万は、19日宮城前広場を再び赤旗の波をもって埋め尽くしました。各代表が、食糧人民管理、反動政府打倒を叫んだ后、世田谷区民の婦人代表は、天皇への願いは区民の本当の声ですと訴えました。
「赤子に飲ませるおっぱいも出ないのであります。この窮状を町会長は知っているでしょうか。そして町会長に申し上げても、それは取り上げてくれないのであります。警察に言っても問題にしないのであります。これ以上は、この苦しみを誰に聞いていただいたらよいのでありましょうか」
「働けるだけ、食わせろ」
「働けるだけ食わせろ!」
「遅配の食糧は人民管理へ」
「遅配の食糧は人民管理へ!」
かくて25万の大衆は、秩序整然と潮のような街頭行進に移りました。
子ども、おかみさん、学生、労働者などあらゆる層の市民は、金にあかし、権力によってたらふく食っているという一部特権階級への怒りを込めて「赤旗の歌」を合唱し、人民大衆団結の力をまざまざと示しました。
(「赤旗の歌」を歌いながらデモ)
直接、陛下に適切な処置をお願いする上奏文を持って宮内省に向かった代表の交渉経過を聞くため、宮城坂下門に集まった市民大衆は、阻止する警官隊を押して、次第に城門前に前進。結局ここに政府の責任回避から、天皇が直接飢えた人民の前に立たれることになりました。
「反動政府反対!」
「反動政府反対!」
「民主政府をつくろう!」
「民主政府をつくろう!」
これより先、首相官邸に入った徳田代議士ら10名の代表は、官邸外から響く大衆の声援の歌のうちに、石黒·林[譲治]両氏を相手に強硬交渉を開きました。吉田新首相に会わせろ、吉田氏は行方不明だと押し問答。ついに一行は夜を徹し、この間、吉田内閣の流産さえ伝えられ、保守陣営に対する民主人民戦線の実力は、今やようやく巨大なものとなるに至りました。