朝8时启新俱乐部前に于て沙兄と待ち合わせ共に9时の急行で北平に旅立った。
车中は殊の外混杂を极め一等切符にて三等に乘车した。
半时间迟れて12时半北平着、北风寒く剩へ蒙古の砂尘を混へて三个月振りに见る北平の空は忧郁な运命を暗示するかの如く自分を迎へた。
和平以后一度北平を访れたが当时中央军いまだ北上せず街路に现れてゐる一切は和平前と何ら异なる所はなかった。
然るに今度は三ヶ月前の旅行と全然异なり、第一に日本人は街路から姿を消し一切は活发に自由に流れてゐるやうな直感を受けた。
寒风の中を傅君の车に乘って先づ弁公处に于て中食をとった。
弁公处も人影淋しく尝て沙兄と苦心して华々しく出发したあの日を忆へば日本の没落を象征するかの如く寥々たるものである。
午后2时半三连兄を福荣公司に访问し合礼の今后に于ける经营方针と和平以后の处世方针を语らうと思ったが多くの人が赌博してゐたので思ふやうに语れず6时顷一先づ姊夫宅に于て母に会ひ三条の家の状况をきいた。
周大文が汉奸で逮捕されたので同院子にある自分の家も封ぜられたのではないかと心配して北平へ来たのであるが封ぜられざるをきき愁眉を开いた。
吴姐夫宅は面目一新し噂にきく如く发财したらしく各部屋の家具は何れも绮丽になった。
夕食后弁公处に归り待ち诧びる四舅と不在中に于けるお互の境遇を语り合った。
今日彼が启新より追ひ出されて敌产处理局に勤务するに至った一联の事情はやはり沙兄の毒计だと予感した。
真に人心测り难いものである。
心を许し合った四舅と语る事は淋しい唐山の六ヶ月间の寂しさを慰めるに充分であった。
然し夜8时半弁公处に着いた时から自分の身体の变调が感ぜられ一风吕浴びればよくなるかと思ったら检温器は40度の高热を示した。
斯くして未だ尝て遭はざる人生の悲剧は幕を切って落ちたのである。
实际过去34年の人生は小さい试练はあるものの割合に顺调な日を送って来た。
特に七七事变の中に结婚し荒波の中に多少苦难を淑英と共に送った事もあるが概して良妻を迎えて平和な礼な家境に惠まれて来た。
唐山に于て既に三周间病魔に恼まされ渐く11日に热がなくなり14日早速旅行に出た。
然るに一周间に满たないのに又しも病魔に犯されたのである。
翌17日早速蒲大夫に见て贳ったが感冒との事でトリヤノンをくれて简单に愈ると思ってゐた。
然るに热は下らず19日张嘉英君に见て贳った。
病名は判らぬが高热は依然として下らず21日母等に奖められて吴姐夫宅に引越した。
22日早速钟柏卿君に来て贳ひ诊察して见たが何病なるかを知らず当初は感冒菌が肝脾脏に入った为の热でなかなか下らぬとの事である。
钟君の献身的努力にも拘らず服药も注射も更に效を奏せず40度の高热は续きご饭は一粒も食べられず身体は衰弱するばかりである。
血液检查の结果渐く25日顷に肠チブスだと判り愈々寻常ならざる病气なるを知った。
24日身体の衰弱が余りに激しかったので生れて初めてリンゲルを注射された。
病名の判明に依る适切なる处置とリンゲルの注射は衰弱を几分か回复し28日より热は下り初めた。
以后母の细心にして周到なる看护と适切なる食事に依り病势日益しに良くなり衰弱も日を逐ふて回复された。
1946年のお正月は病床で迎へた。
由来病气に对する经验のない自分は病气を非常に轻んずる倾向がある。
01月6日青天白日の冬の丽かな朝を迎へて久振りに气分爽やかとなり21日高华里太平桥53号の吴姐夫宅に越して以来17日间初めて起床して颜を洗ひ部屋を轻く散步した。
偶々此の日は朝から见舞のお客が多数见えられ爽快なる气分に合せて大いに色々な事を语り合った。
此の为か1月7日は再び高热が袭来し今度の衰弱は愈々激しかった。
そして病气による身体の苦痛も烈しさを加へた。
当时病气と共に袭ひ来った诸々の不幸なる问题は暗い气持ちを更に暗黑にし、何等か自分の死期を考へ始めた。
然し年老へる母、病弱の妻、8才、6才、4才の子供を思へばやはり死に切れず病魔と战ふ以外に适はなかった。
实际以下述ぶる病中の不幸なる诸々の出来事は身体の衰弱と病魔の苦痛と并せて一时死を希った程である。
幸いに肠出血に至らずして1月27日再度下热してチブスの再热に依る苦痛は约二周间であった。
以后钟君のたゆまざる注射と母の手厚い看护、食事の增进と相俟って病势は暂次回复した。
02月1日の农历大晦日を是非皆样と起きて乐しみたく专ら养生した。
斯くして去年12月26日以来47日间の病魔は完全に征服された。
勿论此の病气は唐山に于ける病气の连续と言ふべく若し和平后の治安不宁、共产党の来袭等に依る约1ヶ月间の过劳がなければ身体の衰弱があるまじく、身体衰弱せざれば病魔にも犯されずに济んだであらう。
病中愈々母ある身の有难たさを痛感した。
若し当时北平に母が居らなかったら、そして母の手厚い看护なかりせば或いは病气は最恶になって生命を失ったやも知れず、少なくとも斯くも早く回复は出来なかったであらう。
病中在平の友达は病气を心配して多数见舞に来てくれた。
见舞品も泽山贳った。
实に友达の有难さが身に沁みた。
斯くして身体の病气は愈り钟君には十万圆の谢金を与へて其の好意と努力を谢した。
然し乍ら病气に随伴して来た心の病手は深く病中もそして恐らく病后も泪の中に暮した。
先づ第一に唐山に于ける“被告事件”である。
12月23日自分の不在中警察と宪兵は自分を汉奸として逮捕すべく唐山の住宅を袭ふた。
何と言ふ皮肉な运命でありませう。
生れて物识る时から祖国を思ひ今日迄そして今后も反日に终始する自分が今日亲日分子として睨まれて汉奸として检举されるとは天ならで谁が知り得よう。
此の事实を北平で知ったのは12月25日深夜11时顷である。
尤も天津から我军、三连两兄が吴姐夫宅に此の事实を知らせて来たのは午后3时顷であったが当时自分は高热の中に衰弱着しかった为姊さん达で何とかして妥当なる对策を协议したが适当なる对策なき为渐く11时顷自分に知らせたのである。
当时の报告は自分が汉奸として检举さるべく唐山と北平三条の住宅は既に封锁されたので01日も早く此处から病院に引越してくれとの声だった。
此の报告は然し自分としてはどうしても事实として信ぜられなかった。
第一、八年间自分は公私共に汉奸として检举される破廉耻的行为をした觉えが绝对にない。
反りに启新に于ける日本军、日本大使馆との诸种の交涉が不可とすれば公司としては袁、陈两总协理が起诉さるべきであり、北平弁公处が亲日的であるとせば沙处长も起诉さるべきであり、唐山工厂が问题なれば赵厂长が起诉さるべきであるべきで自分のみが起诉されることは条道が通らない。
第二に若し斯の重大事件が发生したとせば自分は公司中の最高干部の一人であり、唐山工厂の主脑者である故当然公司若しくは工厂から人を派遣して事实の详细を伝へるべきであり、少なくとも天津に居る沙兄から直接电话があるべきである。
然るに会社よりも工厂よりも何等通告がない。
第三に东四の家は本日元禧が行ったばかりで封されとは事は全く虚伪であること。
以上の三つの视点よりして唐山に于ける被告事件は天津に于ける恶质なるデマであると断言し一同もほっとした。
そして其の夜は何事もないかの如く冷静に寝た。
然るに其の翌12月26日沙兄が天津から归平し22日约300名の兵队が自分の唐山宅を包围し家庭はくまなく搜查を受け淑英は精神的の大きな打击と肉体的に室内を案内させられて疲劳し切って病体が急激に变化せる旨伝へて来た。
勿论家は食堂と母の部屋以外の部屋は全部封锁され、家族は一室にとぢこめられてしまった。
当时淑英の病气は既に第三期症を呈し容易に三人の幼心に伝染するは常识でも判断出来るのに何と畜生的なやり方であらう。
いとしき夫の身を心配するの余り淑英は终ひに27日之も后で分らしてくれたのであるが约脸盆二つに入る多量の喀血をし出しそして再び起てなくなった。
此の事实はずっと自分の健康が回复されてから知ったが然し40度の高热下に何となく淑英は自分の病气と此度の汉奸事件を心配して客体が急激に恶化しとても助からない予感がした。
元气な颜で别れた淑英の美しき姿!
それが一周间后の今日自分をして淑英に对する绝望的な予感が何故起ったのか自分は知らない。
从って自分は自身の病气よりも、そして自分の汉奸事件よりも绝えず夜の星を眺め天井をになんで奇迹を神に祈った。
结婚して以来八年间自分は淑英に惚れ、淑英も热烈に自分を爱した。
倦怠期もなく喧哗した事もなく淑英は唯私を慰める为にそして自分を喜ばす为に物质的には勿论肉体的にも一切を私に捧げて来たのである。
八年间は谓はば其の日其の日が初恋の如き情热と欢喜の连续であった。
今日私は病に仆れ彼女又300余粁も离れた唐山で容体は急激に恶化しつつあるときく、何と咒はしい运命であることよ。
今日こそ自分は一切を牺牲にして看病してあげたいし、又彼女が健康であれば优しき彼女に自分も看病して贳ひたかった。
それなのに、ああ、それなのに一人は北京の空の下で、一人は唐山の山の上でお互に重态になって病魔に呻吟してゐる。
母は自分から离れられないし、自分去りて淑英は淋しからうと思ひ、先づ郭清海君を唐山にやった。
それから彼女のいとしき弟詹元龙君をやった。
更に许子秋君と张和贵君がよく心配して北京の寓居へ访れて来てくれるので结核の专门家である张和贵君を烦はし前后三回看病、诊察等に行って贳った。
然し彼女の病势は一进一退、元禧君から每日病状(温度、脉拍、食事状况)を报告して贳ってゐたが何故か淑英の病气は绝望的な予感がしてならなかった。
沙兄がちょいちょい中间报告に徐弗庵兄も二回自分を见舞方々淑英の病状报告に来てくれた。
仅々六ヶ月间ゐた唐山工厂の同人の热き人情に比して北京弁公处の连中は人情极めて冷たかった。
それでも自分はやはり淑英の回复に一缕の希望を有って热烈に其の全快を神に祈ったのである。
次に访れて来た不幸は天津の房子の问题である。
英租界が封锁される直前家の所有者は同僚李课员に恳愿し自分に该房子を是非买ってくれと叹愿すること数回、当时一般市似に比して稍々高似だったが李课员の面子を思ひ买收して绮丽に改造した。
自分はすぐ入って住ったが昭和15年5月自分が北京へ转勤すると同时に藤田君に更に其后顺次日人に赁家した。
日本の降伏前后情势の非なるを见て金源兄に卖却方お愿いし、或ひは日人より取り返すやうお愿ひしたのに彼は引受けて何等为してくれず终ひに日人の引越后、原所有者に占领されてしまった。
而も原所有者が当时私が日本の势力を借りて彼を压迫し强制收卖したるを以て其の返还告诉を警察局に提诉したのである。
ああ中国人の良心よ、何と畜生的な破廉耻的な行为でせう。
其の间吴三连兄、张秋海兄をして折涉せしめたが埒あかず沙兄にもお愿いしたがやはり积极的に动いてくれず其の上自分が汉奸の嫌疑で逮捕令中余り积极的にも出られず终ひに泣き寝りの己志なきに至ったのである。
斯くして自分社会に出て勤俭した金で得た最初の不动产──それは本当に汗と泪の结晶で买ったものなのに……──は良心なき畜生に夺はれてしまったのである。
续いて北京七条の房子は柳次郎と云ふ日本名义にしてゐた为に大使馆から中国政府の财产移管目录に入れられてしまひ自分は所有权を丧失してしまった。
悲しい知らせである。
日本降伏前王乙金四舅に早く处分するやうお愿ひして唐山に赴任し、其の间相当よい值段で卖れる筈なのに母の欲张りからして商谈を不成立に陷らしめ日本降伏后杨基泽君が蒙疆から避难して彼を收容し其の为に卖却出来ず终ひに斯くの如き非运に陷ったのである。
他方自分の事业を观るに天津に于ける明星、新中央两戏院は恶党杨朝华と饶江河に计られて失ひ、三家店の二つの炭矿は降雨侵水后日本降伏に依って设备一切は匪贼に略夺されて溃れ、合礼行は陈哲民が敌财隐匿で告诉されて封锁されてしまった。
事业关系も全部乌有に归してしまった。
次に动产关系を见るに当时自分は白银三千两、黄金十五两、启新の株券四千五百株、北京の三条に可成优美な家财道具と唐山に贵重な什器、挂物等を泽山持ってゐたのである。
先づ唐山の什器、挂物は自分を检举して来て全部封锁され银食器、中国の古画、自分の衣装、淑英の见回り贵重品、时计、十数个のトランク等何れも中国官宪に没收されてしまった。
北京での留守宅では食粮、石炭、ラヂオ、五百日回る时计等何れも盗难にかかってしまった。
更に唐山から北京へ自分を逮捕に来ると云ふので凡百の东四三条の家财道具を安似に卖り払った。
银三千两も安く卖ってしまった。
金十五两も安く卖り払った。
卖った后は总て大暴腾である。
特に金源君は预けて处分した六两の金のお金は陈姐夫に持ち去られて自分には一文も入らなかった。
之等の生々しい不幸は何れも自分の病中に起きた出来事である。
自分は肉体的には病魔と战ふ以外に精神的に如何に恶战苦斗した事か。
幸ひにてん淡たる自分の性格と谛观的な人生观が自分の超然的气质を培ひ一切を灰烬に归せしめたる后は运命に一切を归して心の苦恼を轻くした。
唯淑英の病气だけがどうしても谛めきれない。
何かの超自然的な力で是非之を救ひたい。
だが运命の转落は斯くも早いものか。
自分は幸福の绝顶から绝望のどん底へつき落とされてしまった。
过去学校を出て12年间寒さを偲び苦しさを忘れて丹诚に今日を筑き上げたなのに一瞬にして崩坏してしまったのである。
ああ
12月16日
星期日─1946年1月31日
星期四
早上八点与沙兄在启新会合,一同搭九点的快车前往北平。
车内意外拥挤,一等车厢的票跟三等车没两样。
迟了半个小时,十二点半抵达北平,北风萧瑟,还混着蒙古的风沙,久违三个月的北平天空,仿佛暗示着忧郁的命运般迎接我。
和平到来后曾造访过北平一次,但当时中央军尚未北上,一切与和平前并无两样。
但这次与三个月之前的旅行全然不同,第一,街上看不到日本人的影子,直接感受到一股活泼自由的气分。
寒风中搭上傅君的车,先到办公处用中餐。
办公处也是人影稀疏,想到当初与沙兄还煞费苦心地将门面装点得气派非凡,现在宛如象征日本没落似地,看来格外寂寥。
下午两点半本想约三连兄造访福荣公司,一起讨论合丰今后的经营方针与和平后的处世学问,但许多人在他家赌博,说不出口,六点先到姊夫家看母亲,了解三条家的状况。
周大文被当成汉奸逮捕后,原本担心隔壁的我们家也会被查封,所以来北平听到没事,这才放心。
吴姊夫家焕然一新,果真如传言所说发了大财,每个房间都换新家具。
晚餐后回到办公处,与等我甚久的四舅闲聊近况。
我隐隐觉得他今天会被赶出启新,跑去敌产处理局工作,这一连串的事情果然都是沙兄的诡计,真是人心难测。
与气味相投的四舅聊天,充分抚慰了我唐山六个月的寂寞。
但晚上八点半来到办公处时,觉得身体有异,想说泡个澡会好得多,体温计一量竟有40度的高烧。
看来过去从未遭遇过的人生悲剧这才正要开始上演。
其实过去三十四年来的人生中虽有小小试炼,但还算顺利。
特别是结婚时值七七事变,动乱中与淑英共同经历多少苦难,但大体上仍是娶得良妻,家庭和乐富裕。
在唐山病了三个星期,11日总算退烧,14日马上踏上旅途,但不到一星期又生病。
隔天17日马上去给蒲大夫检查,原来是感冒,想说拿了药以后就会好。
想不到高烧不退,19日又去给张英君看病。
不知道是甚么病,但高烧不止,21日在妈妈的建议下,搬到吴姊夫家。
22日马上请钟柏卿君前来诊疗,但仍不知病因为何,只知当初的感冒病菌如今已侵入肝脾脏,所以高烧不退。
虽钟君尽心尽力医治,吃了药打了针却无法奏效,高烧到40度不退,滴食未进,身体衰弱。
血液检查结果是伤寒,才知道不是寻常病症。
24日身体病得严重,打了生平头一遭的点滴。
因为知道病症采取适当的处理,打过点滴恢复些许体力,28日开始退烧。
之后母亲细心照料,在周到的看护与均衡的饮食下,我的病才逐渐好转,逐日恢复体力。
1946年,在病床上迎接新历年。
过去以来没生过甚么病,使我对病状大意。
01月6日看到晴朗的冬日,感觉到久违的神清气爽,从21日搬到高华里太平桥53号的吴姊夫家以来,这十七天中我第一次起床自己洗脸,在房间里漫步。
刚好从这天早上开始,便有许多前来探病的客人,精神爽朗地闲聊许多。
但不知是否因为如此,1月7日开始再度发高烧,这次十分衰弱,而且生病带来的身体病痛更加剧烈。
随着生病一起袭来的诸多不幸,让我的心情万分恶劣,甚至还想到自己是不是死期到了。
但想到年老的母亲、生病体弱的妻子,8岁、6岁与4岁的孩子,还是不能死,一定要与病魔奋斗到底。
其实生病期间发生的种种不幸,随着身体衰弱与病痛一起爆发时,一度让我想死。
所幸没发生肠出血,1月27日再度退烧,伤寒引发高烧所带来的痛苦,持续两周。
之后在钟君小心翼翼的打针治疗、母亲细心的看护下,开始进食后,病状暂时好转。
02月1日农历除夕,与大家一同共度,专心养病。
如此一来,去年12月26日以来维持47天的病况才算完全痊愈。
这次生病应该可说是延续唐山时期的病况,加上和平后治安不宁与共党来袭,一个月间操劳过度使得身体衰弱,若身体强健,也不会犯病。
病榻间深深感受到母亲在身边的幸福。
当时若母亲不在北平,少了母亲细心的照料,我恐怕是病入膏肓,一命呜呼也说不定,至少不会如现在一样迅速康复。
生病期间许多北平的朋友都来探病,表示关心,也得到许多慰问礼物,深深感到朋友的好。
痊愈后给了钟君十万圆感谢他的好意与努力。
然而,随着身体上的疾病后接连而来的,却是精神上的折磨,让我在病中,甚至是痊愈后仍然得在泪水中度过。
首先是唐山的“被告事件”。
12月23日我不在家的时候,警察与宪兵袭击唐山的家,欲以汉奸的名义逮捕我,真是讽刺万分。
懂事以来时时心系祖国,一路走来始终反日,但今日竟把我当成亲日分子检举,真是天大的冤枉。
我在北平得知此事,是12月25日的深夜十一点左右。
本来下午三点,我军与三连兄特别从天津跑来吴姊夫家告知此一消息,但当时自己因高烧十分衰弱,姊姊们共商善策,但却苦无对策,直到十一点才通知我。
他们当时是说,因为被当成汉奸检举,唐山与北平三条的家都已经被封锁,还是早01日搬到病院去比较保险。
这消息真是让我不敢相信。
这十八年来,于公于私,我万万都没有做过汉奸这种不耻的行为。
若说启新时期与日本军、日本大使馆的种种交涉称得上汉奸,那袁、陈两总协理早就该被起诉;
北平办公处算得上亲日,那沙处长也逃不了关系;
唐山工厂如果也有问题,那么赵厂长是不是也该被起诉?
单单找我开刀,实在是没有道理。
第二,若有重大情事发生,身为公司高级干部的一分子,加上又是唐山工厂的主事者,公司或工厂应该会派人来说明详细情形,至少天津的沙兄也会打个电话来才是。
但公司或工厂都没有任何消息。
第三,今天元禧才去过东四的家,根本没有被封。
从以上三点看来,我判断唐山被告事件应该是天津那边恶意的谣言所致,大家这才放心。
那一夜就仿佛甚么事也没发生般,冷静入睡。
但隔天12月26日沙兄自天津回到北平,告知22日约有三百名士兵包围唐山的住处,家里被彻底搜查,淑英精神遭受到莫大打击,加上撑着病体前前后后招呼引导,操劳之余再度发病。
住处除了餐厅与母亲的房间以外全部都被封锁,一家人全关在一个房间。
当时淑英的病已是第三期,任谁都知道特别容易传染给三个孩子,竟然还敢做出这种畜生似的行径。
淑英终于在27日后被安排隔离,但担心心爱的丈夫安危之余,大量咳血,约有两个脸盆之多,之后一病不起。
这些都是我康复后才知道的事,但高烧40度时,对于淑英如此担心自己病况与这次的汉奸事件以致病情恶化,总有种无力回天的预感。
分开时淑英还是这么健康美丽!
之后的一个星期以来,我自己都不知道为何对淑英会有那种绝望的预感。
夜里我眺望着星星、看着天花板,为我的病、为汉奸事件,向神明祈求奇迹。
结婚以来八年,我深爱淑英,淑英也热烈地爱着自己,不曾对彼此倦怠,也没吵过架,淑英一心照抚我,为了讨我欢心,不论是精神还是肉体,对我全心奉献。
八年来的每一天,都像初恋般热情与欢欣。
今天我生病,而她又远在三百公里外的唐山,听到她病情加剧,真是命运多舛。
我真想牺牲一切去照料她,要是她还健康,温柔如她一定也会想要照顾我。
但事与愿违,啊!
一个人在北京,一个人在唐山,两人都病入膏肓,受病魔摧残。
母亲又不能离开我,想到我不在身边,淑英一定万分寂寞,马上请郭清海君跑一趟唐山。
另外请她要好的弟弟詹元龙前去。
之后许子秋君与张和贵担心我的病前来北京寓所拜访,请他们去找肺结核专家,张和贵前后帮我看了三次病,进行诊疗。
但她的病情时好时坏,我请元禧君每天对我报告病状(体温、脉搏数、饮食状况),但不知何故,我老对淑英的病感到绝望。
沙兄定期向我报告外,徐弗庵兄也来探望我两次,并报告淑英的病况。
待在唐山仅仅六个月,但与工厂同仁的热情相比,北京办公处的人却是人情淡薄至极。
我还是对淑英的痊愈抱有一丝希望,向神热切祈祷早日康复。
之后接踵而来的不幸,则是天津房子的问题。
英国租界被封锁前不久,该房主人拜托同事李课员,找我商量好几次,请我务必要买下那栋房子,虽然比一般市价稍高,但想卖李课员一个面子,便出面买下并整修得相当漂亮。
我当时马上就住进去了,但昭和15年5月调职到北京后,便把该住处租给藤田君,之后还有其它日本人。
日本投降前见情势不妙,委托金源兄帮忙卖掉,或是引渡给日本人,但金源兄迟迟未处理,终于,等到日本人都搬走后,那栋房子又被原屋主占据。
而且那个屋主还说我当时是藉日本人的力量逼他卖出,还告上警察局要我还屋。
啊!
这就是中国人的良心,行为像畜牲般可耻。
吴三连兄与张秋海兄有居中协调,但不成,委托沙兄,但他也不积极处理,加上自己被当成汉奸通缉中不好出面,只能在病床上哭叹自己有志难伸。
那是我出社会后用自己的钱所买下的第一座房地产,全是血汗换来的,竟被那没良心的畜生给夺去。
接着,北京七条的房子是用柳次郎的日本名字购买,被大使馆移转到中国政府的名下,我也丧失了所有权。
真是伤心的消息。
日本投降前,曾请王乙金四舅即早处理,回到唐山后,其间有谈成好价钱,但因为母亲贪心而谈不拢,日本投降后,杨基泽从蒙疆前来避难,为了收容他而没法卖出,终于演变成如今的惨剧。
看看自己其他的事业,天津的“明星”、“中央”两戏院,被坏蛋杨朝华与饶江河设计而失手;
三家店的两个煤矿坑又因日本投降,一切设备被盗贼夺去;
合丰行因陈哲民隐匿敌财被起诉,遭到查封。
所有关系事业全化为乌有。
其次我还有白银三千两、黄金十五两、启新的四千五百股股票,北京三条家的精致家具以及唐山的贵重瓷器与挂饰。
首先,因为被通缉,唐山的瓷器、挂饰都被查封,银食器、中国古画、我的衣服、淑英身边的贵重物品、钟表、十几个大旅行箱都被中国官兵没收。
北京住处的粮食、煤炭、收音机、时钟则都被偷光。
而且还说甚么会从唐山来到北京逮捕我,我急急把所有东四三条的家具廉价变卖精光。
连三千两的银都廉价卖掉。
金子也便宜卖掉。
卖掉之后全部都大升值。
之前金源君帮我卖掉六两金子的钱则被陈姊夫带走,我未得分文。
这些凄惨的不幸全在我生病期间发生。
肉体在与病魔搏斗时,精神上竟也要与之苦战。
所幸天生性格恬淡加上达观的人生观,培养出我超然的态度,一切化为灰烬后命运一切从头,倒也减轻心中苦恼。
唯独淑英的病让我怎么也无法放下,希望出现神力救她一命。
不过命运变幻的也太快了。
我从幸福的高空重重地跌到绝望的谷底。
学校毕业后忍受十二年寒冬才有今日成就,如今却是一转眼就化为流水。
啊啊!