1944年(昭和19年)7月13日
[1]長沙陥落 06:28
敵、重慶軍に迷いの夢深くして、いまだ醒めず。されば、皇軍の一隊は暁をついて長江を押し渡り、長沙前面にその夢を破る。すなわち総攻撃の命は下った。時に6月16日。
長沙。長沙は長江をもってその外堀となし、長江左岸、岳麓山の天嶮(てんけん)によって第9戦区本拠の要塞(ようさい)(音声中断)しかも6月17日朝、敵が天嶮と頼む岳麓山、既に我が手に帰し、長沙を眼下に睨んで、巨弾を打ち込む態勢は整った。
突入援護の一弾、また一弾。
18日、長沙市街に突入。白兵をもって残敵に迫る。
蒋介石は同じ18日、敵第4軍に長沙の死守を命じたと伝えられる。その命を受けてよりわずかに数時間、同日午后、その敵の重要拠点はあえなくも潰えて、我が手に帰した。総攻撃開始以来、わずかに03日。昭和16年09月、18年01月、そして今回をもって、陥落は三度を数え、我が堂々の歩武を長沙に印した。同市飛行場もまた友軍の収むるところとなり、湖南の沃野(よくや)に重慶の命脈は細りゆく。
第1戦区から第9戦区まで、重慶は抗戦の網を張り得たと信じるか。あるいはまた、網の要にアメリカ空軍の進出を許し、我が本土爆撃にその希望をつなぐか。抗戦の夢を貫いて明らかに走る一筋の道は、東亜共栄圏の破壊を目指す米英の野望にほかならぬ。それらすべても、長沙落ちてむなし。時、あたかも帝国政府は中外に声明を発していわく。支那(シナ)民衆は、もとより我が朋にして、いやしくも米英との協力を廃するものは、重慶側軍隊といえども我が敵にあらず。岳麓山を中心に、残骸をさらす敵軍兵器のおびただしさは、目覚めざる重慶の敗北たるにとどまらず、実に米英のアジア侵攻を打ち砕く我が勇士の敢闘を物語って余りがあった。
見よ、長沙城外にあっぱれな姿を横たえた敵機。しかし、あなどってはならぬ。この敵機こそは、第9戦区のみでも、長沙、衡陽、遂川(すいせん)、吉安、幾多の飛行場を抱えて、日本本土爆撃の機を窺(うかが)うアメリカの姿を示している。
町には数多のトーチカが抵抗せんとする敵の企図と戦意を告げていた。司令長官薛岳は、誤れる抗戦意識をあおっていた。この実情こそは一刻も早く、そしてますます頻繁に、彼らの迷夢を覚ますべき手だての必要さを痛感せしめた。
この戦いにおいて、およそ5000の敵兵が我に投降した。その俘虜(ふりょ)に真心を込めて語り聞かす精神を、我々は再び帝国政府声明に見ることができる。すなわち、帝国の希求するところは、偏に日華同盟条約並びに大東亜共同宣言に則り、その自主独立を尊重し、日華永遠の善隣友好関係を完成するにあり。
皇軍占領とともに帰り来たった難民の数は莫大であった。彼らに説き聞かせるもの、それは日華友好の心である。この心に美しく咲き入れた睦の花から、やがて大東亜共栄の実りが大きく生まれ出ることであろう。