日本ニュース 第211号

1944年(昭和19年)6月15日

[1]洛陽攻略 04:34

洛河に臨み、黄河の懐に抱かれて、興亡4000年の歴史を閲した洛陽に、重慶第1戦区軍は本拠を構えていた。我が軍はこの由緒ある都の破壊さるるを惜しみ、これを包囲監視の上、敵軍に降伏を勧告するも、敵、これを容れず。よって進撃、攻撃の命下る。時に5月24日。既に河南の沃野に精鋭とうたわれた重慶第1戦区、湯恩伯軍の主力は鎧袖(がいしゅう)一触、皇軍の前に壊滅し去っている。しかしなおとどめを刺すために戦車を先頭に我が機甲部隊は目標の洛陽にひたひたと押し進む。戦いのおもむくところ既に明らかにして、皇軍の苦心はいかにして洛陽を無傷に攻略するかであった。しかしこの古い都は、重慶軍が天然の要害に加えるに、あらゆる知能を傾けてものにした堅固な要塞(ようさい)として立っている。さればこそ難攻不落を信じて、敵は降伏を拒むのである。蟷螂(とうろう)の斧にも等しき抵抗に痛棒の下るときは刻々迫った。

各部隊、一斉に洛陽奪取の態勢は整え終わった。一隊は北方高地に取りついた。猛烈な突っ込み戦が始まった。一隊は停車場に突入。敵の輸送機関を我が手に収め、なおも敗敵を急追。5月25日早朝、最后の市街戦。戦いはわずか20時間。しかも戦果は莫大(ばくだい)であった。捕虜8300。我が方にて収容せる死体と合すれば実に1万3000。鹵獲(ろかく)兵器、各種火砲74。重軽機約300。小銃類は3000を数え、高らかな凱歌(がいか)を上げた。

[2]敵軍北佛に侵入 03:01

昨年の11月末、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの三者がテヘランに会談。その結果、欧州の東、西、南より行わるべき作戦に関し、意見の一致を見たと発表した。その后ドイツは、期するところあってか、東部戦線においてしきりと戦線短縮を行い、ソ連はついにルーマニアに侵入。本年6月を迎えた。夏の攻防戦近しと思われた6月05日、ドイツ軍はイタリア、ローマを撤収した。しかるに、まさにその翌日、6月06日未明、米英軍上陸部隊は北フランスセーヌ河口、ルアーブル、およびポタンタン半島シェルブール地区にかけての沿岸一帯に来襲。同時に空挺(くうてい)部隊が空より侵入した。果然、第2戦線は展開されたのである。目下、河岸地区を中心に激戦展開中である。

6月07日、ドイツ軍はロメル(ロンメル)元帥麾下(きか)の虎戦車を始めとする機甲軍団を増援せしめた。先にはリビアに猛威をふるい、ついでイタリア戦線にいかんなき機動力を発揮した、快速を誇る機甲軍団の一面をここにうかがうこととす。ロメル(ロンメル)快速部隊は、このたびは第7、第15戦車師団を主力とすると伝えられているが、同部隊の参戦により、一大決戦が行われつつあるのである。麾下部隊を率いて、自ら前線に出動したと言われるロメル元帥。再び敵将、モントゴメリーと相まみえる同元帥は、いかなる奇策を練るや。第2戦線の展開に先立ち、ドイツ軍の新兵器、ロケット砲の威力がしばしば報ぜられている。これはそのロケット砲である。もって第2戦線の激戦をしのぶ。